情報の非対称性
オークション市場において1つの商品が売りに出されており、入札者(bidder)たちはその商品を手に入れるために購入希望金額を入札する状況を想定します。商品は1つだけであり、それを複数に分割することはできないものとします。
それぞれの入札者は商品に対する評価額(valuation)を持っています。これは、売りに出されている商品を手に入れるためにいくらまでなら支払ってもよいかという金額であると考えてください。ここでのポイントは、それぞれの入札者にとって、自身にとっての商品への評価額は自分だけが知っている情報であり、他の入札者たちはそれを事前に観察できないということです。以下では数値例を使って具体的に説明します。
ある1つの商品をめぐって行われるオークションに3人の入札者が参加する状況を想定します。3人をそれぞれ\(1,2,3\)と呼びます。
例えば、入札者\(1\)は商品の評価額を\(10\)万円と考えているものとします。つまり、入札者\(1\)はその商品に対して\(10\)万円までなら支払ってもよいと考えているということです。この情報は入札者\(1\)だけが知っている情報であり、入札者\(2,3\)はその情報を事前に知ることはできません。入札者\(2,3\)にとっての評価額についても同様です。3人がそれぞれ知っているのは自身にとっての評価額だけであり、他の入札者たちが考える評価額を事前に知ることはできません。
仮に入札者\(1\)が他の入札者たちに対して、入札が行われる前に自身の評価額を打ち明けたとしましょう。しかし、それを聞いた入札者\(2,3\)は、入札者\(1\)による発言の真偽を確認する術はありません。入札者\(1\)は嘘をついているかもしれないし、本当のことを言っているかもしれない。入札者\(1\)にとっての評価額は入札者\(1\)の頭の中にある情報である以上、入札者\(1\)が事前に伝えてきた情報の真偽を他の人が判定することは原理的に不可能です。他の2人の入札者にとっての評価額についても同様です。
このとき、それぞれの入札者にとって商品への評価額は私的情報(private information)であると言います。それぞれの入札者が考える商品への評価額はその人だけが私的に持っている情報であり、他の入札者たちはそれを事前に知ることはできないということです。また、市場の参加者の中に私的情報を持つ人が存在するとき、その市場では情報の非対称性(asymmetric information)が成立していると言います。オークションの文脈では、すべての入札者が同じ情報を持っているのではなく、入札者ごとに持っている情報に違いがあるということです。
インセンティブの問題
情報の非対称性が成立している市場では、市場全体にとって望ましくない事態が起こり得ます。オークションを主宰する競売人(auctioneer)は、売上の最大化や効率性の達成など、何らかの意味において望ましい結果を達成しようとしますが、情報の非対称性が成立する場合、それらの目標を達成できるとは限りません。これをインセンティブの問題(problem of incentives)と呼びます。以下で具体例を利用して詳しく解説します。
先ほどと同様、3人の入札者\(1,2,3\)が1つの商品をめぐって入札するオークションを想定します。彼らの評価額が以下の表で与えられています。繰り返しになりますが、評価額は私的情報であり、それぞれの入札者が知っているのは自身にとっての評価額だけです。
$$\begin{array}{cccc}
\hline
入札者 & 1 & 2 & 3 \\ \hline
評価額 & 11万円 & 12万円 & 13万円 \\ \hline
\end{array}$$
競売人は効率的な結果を目指しているものとします。効率性とは、入札者たちと競売人が得る利益の合計を最大化するということです。
例えば、入札者\(1\)が商品を落札して\(x\)円支払う状況を想定しましょう。入札者\(1\)は自身の評価額である\(11\)万円以上の金額を入札するとは考えられないため(\(11\)万円より高い金額を支払うと損をする)、\(x\leq 110000\)としても問題ありません。その結果、入札者\(1\)は自身にとって\(11\)万円に相当する商品を受け取る対価として\(x\)円を支払うため、それらの差額である\(110000-x\)円だけ得したことになります。これが入札者\(1\)の利益です。残りの入札者\(2,3\)は商品を落札できず、支払いも行わないため、彼らが得る利得はともに\(0\)円です。最後に、競売人は落札者である入札者\(1\)から\(x\)円を受け取るため、利益は\(x\)円です。したがって、この結果によってもたらされる利益の合計は、
$$\begin{array}{cc}
1の利益 & 110000-x \\
2の利益 & 0 \\
3の利益 & 0 \\
競売人の利益 & x \\ \hline
全員の利益の合計 & 110000
\end{array}$$
となります。これは入札者\(1\)による評価額に等しいことに注意してください。
では、入札者\(2\)が商品を落札して\(x\)円支払う場合、全員の利益の合計はどのようになるでしょうか。入札者\(2\)は自身の評価額である\(12\)万円以上の金額を入札するとは考えられないため、\(x\leq 120000\)としても問題ありません。その上で、先ほどと同様に考えると、この結果によってもたらされる利益の合計は、
$$\begin{array}{cc}
1の利益 & 0 \\
2の利益 & 120000-x \\
3の利益 & 0 \\
競売人の利益 & x \\ \hline
全員の利益の合計 & 120000
\end{array}$$
となります。これは入札者\(2\)による評価額に等しいことに注意してください。
最後に、入札者\(3\)が商品を落札して\(x\)円支払う場合について考えます。入札者\(3\)は自身の評価額である\(13\)万円以上の金額を入札するとは考えられないため、\(x\leq 130000\)としても問題ありません。この場合の利益の合計は、
$$\begin{array}{cc}
1の利益 & 0 \\
2の利益 & 0 \\
3の利益 & 130000-x \\
競売人の利益 & x \\ \hline
全員の利益の合計 & 130000
\end{array}$$
となります。これは入札者\(3\)による評価額と一致します。
以上を踏まえると、競売人が効率的な結果を実現するためには、すなわち全員の利益の合計を最大化するためには、商品に対する最大の評価額を持つ入札者\(3\)に商品を売る必要があります。このとき、全員の利益の合計は\(13\)万円で最大化されます。
競売人にとっての商品の評価額を考えなくてもよいのでしょうか。商品のオーナーが競売人である場合や、競売人が商品を仕入れてオークションで転売する場合などには、落札者による支払金額\(x\)を競売人の利益とみなすことはできません。より正確には、競売人にとって商品の評価額が\(y\)であるならば、競売人が得る利益は\(x-y\)となります。ただ、このような要素\(y\)を明示的に考慮した場合でも、全員の利益の合計を最大化するためには入札者\(3\)に商品を売る必要があるという点では先ほどと同じです。ただ、\(x<y\)の場合には注意が必要です。つまり、落札者の支払額\(x\)が競売人の評価額\(y\)を下回る場合、競売人は商品を売ると損してしまいます。とは言え、オークションを行う際に最低落札金額\(y\)を設定すればこのような状況を回避できます。以上を踏まえると、\(y=0\)とみなしても話の一般性は失われません。
オークション市場におけるインセンティブの問題
全員の利益の合計を最大化するためには、商品に対する最大の評価額を持つ入札者\(3\)に商品を売ればよいことが明らかになりました。ただ、この議論には怪しい点があります。仮に競売人が、それぞれの入札者にとっての真の評価額を事前に知ることができるのであれば、競売人は入札者\(3\)に商品を売り、効率的な結果を実現できます。しかし、そもそも入札者にとっての評価額は私的情報ですから、競売人もまたそれを事前に知ることはできません。言い換えると、どの入札者に商品を売れば効率的な結果を実現できるか、それを事前に知ることはできません。
そこで競売人はそれぞれの入札者に自身にとっての評価額を入札させた上で、得られた入札額をもとに落札者を選ばざるを得ません。しかし、それぞれの入札者が申告する入札額は、その入札者にとっての真の評価額と一致するとは限りません。入札者にとって評価額は私的情報であるため、入札者は嘘をついて評価額とは異なる金額を入札しても、競売人はそれが嘘であるかどうかを知る術がないのです。情報の非対称性が成立する状況では、それぞれの入札者は自身の利益を最大化するために、戦略的に嘘をつく可能性があります。そのときにどのような問題が起こり得るか、以下で具体例を使って考えます。
$$\begin{array}{cccc}
\hline
入札者 & 1 & 2 & 3 \\ \hline
評価額 & 11万円 & 12万円 & 13万円 \\ \hline
\end{array}$$
3人の入札者たちにとっての真の評価額は先ほどと同様です(上の表)。ただ、これらの情報は入札者にとって私的情報であるため、それぞれの入札者は嘘をついて評価額とは異なる金額を入札する可能性があります。そこで、それぞれの入札者が以下の金額を入札した状況を想定します。
$$\begin{array}{cccc}
\hline
入札者 & 1 & 2 & 3 \\ \hline
入札額 & 11万円 & 11万9千円 & 11万8千円 \\ \hline
\end{array}$$
競売人にとって観察可能な情報は「入札額」であり「評価額」ではありません。そこで競売人は、上の入札額を観察した上で、最大の金額を入札した入札者\(2\)を落札者として選んだとします。しかし、これは効率的な結果ではありません。先ほど説明したように、入札者\(2\)に商品を販売するケースにおいて全員が得る利益の合計は\(12\)万円であり、これは、入札者\(3\)に商品を販売するケースにおいて全員が得る利益の合計である\(13\)万円より少ないからです。
話を整理します。仮に競売人がそれぞれの入札者にとっての真の評価額を観察できるのであれば、競売人は入札者\(3\)に商品を売ることで全員の利益の合計を最大化できるため、実際にそのように行動します。しかし現実には、それぞれの入札者にとっての評価額は私的情報であるため、競売人はそれを観察できません。また、入札者は戦略的に嘘をつき、自身にとっての真の評価額とは異なる金額を入札する可能性があります。競売人は入札者たちが嘘をついているかどうか判別できません。その結果、競売人が入札者\(3\)とは異なる入札者に商品を売るという事態が起こり得て、その場合、全員の利益の合計は最大化されません。以上が、情報の非対称性が引き起こすインセンティブの問題の一例です。
メカニズムをデザインする
インセンティブの問題を解消するためにはどうすればよいでしょうか。インセンティブの問題を引き起こす原因が情報の非対称性である以上、インセンティブの問題を解消するためには、何らかの方法を通じて情報の非対称性を解消する必要があります。言い換えると、何らかの方法を通じて、それぞれの入札者の真の評価額という情報を収集する必要があります。ただ、繰り返しになりますが、入札者に評価額を尋ねても正直に答えるとは限りませんし、そもそも正直に答えているかどうかを判別する方法が存在しません。
ただ、それぞれの入札者にとって、自分の真の評価額を正直に入札することが最も得であるようなオークションのルールを設計すれば、そのようなルールのもと、入札者は自分の真の評価額を自ら進んで正直に表明するため、結果として情報の非対称性は解消されます。先ほどの例に話を戻すと、競売人が巧みにオークションのルールを設計すれば、3人の入札者たちが真の評価額を自ら進んで正直に入札するように誘導できる可能性があるということです。真の評価額を正直に入札するように誘導できるならば、競売人は入札者\(3\)に商品を売れば全員の利益の合計を最大化できることが分かるため、実際に、入札者\(3\)を落札者として選定することになります。
ただ、そもそも、そのようなオークションルールを設計することは可能なのでしょうか。また、可能である場合、具体的にはどのようなルールがそのような要件を満たすのでしょうか。オークション理論では主に、このような問題について考えます。
一般に、情報の非対称性が成立する市場において、私的情報を持っている参加者をエージェント(agent)と呼びます。市場において情報の非対称性が成立するとき、エージェントが自身の利益を最大化するために戦略的に振る舞う結果、その市場ではインセンティブの問題が発生します。インセンティブの問題を解消することを目的に設計されるルールをメカニズム(mechanism)と呼び、メカニズムを設計する主体をプリンシパル(principal)と呼びます。プリンシパルは適切なメカニズムを設計することを通じて、エージェントたちの行動を社会的に望ましい方向へ誘導しようとします。
先のオークション市場の例におけるエージェントは入札者たちです。入札者は商品への評価額などを私的情報として持っています。入札者たちが自身の利益を最大化するために真の評価額とは異なる金額を入札する結果、オークション市場ではインセンティブの問題が発生します。そこで、競売人はプリンシパルとして適切なオークションメカニズムを設計し、入札者たちの行動を社会的に望ましい方向へ誘導しようとします。メカニズムを設計する学問をメカニズムデザイン(mechanism desing)と呼びます。オークション理論はメカニズムデザインの一分野であり、逆に、メカニズムデザインはオークション以外にも様々な応用分野を持っています。