イスラム教が登場する以前のアラビア半島
アラビア半島(Arabian peninsula)の大部分は砂漠に覆われているものの、西部のヒジャーズ地方(Hijaz)にはオアシス都市が点在し、南部のイエメン地方(Yemen)は肥沃な農耕地帯です。セム系のアラブ人(Arabs)はこれらの地域において羊やラクダなどを飼育する遊牧や、小麦やナツメなどを栽培する農業に従事していました。

アラビア半島の北に位置するシリアのダマスカス(Damascus)は東西交易の交差点としてビザンツ帝国(Byzantine Empire)およびササン朝ペルシア(Sasanian Empire)との交易の窓口になっていました。アラブ人はキャラバン(caravan)と呼ばれる隊商を編成して北のダマスカスと南のイエメンを結ぶ中継貿易(intermediary trade)を行い、香料やスパイス、絹やガラス製品などを運んでいました。

イスラム教が登場する以前のアラビア半島には国家や法制度のような統一的な政治機構は存在せず、血縁関係を基盤とした社会集団である部族(qabila)が人々の安全・生活を支える役割を果たしていました。人々は血縁関係を重視し、同じ祖先を持つ部族どうしが連合する一方で、資源や交易利権を巡る部族間の抗争も頻発しました。
アラブ人は部族ごとに神が異なり、メッカ(Mecca)にあるカーバ神殿(Kaaba)には様々な神の像が祀られていました。イスラム教が登場する以前のアラビア半島は多神教世界であったということです。その一方で、アラブ人は交易などを通じてキリスト教徒やユダヤ教徒と交流していたため、一神教の概念は知られていました。

アラブ人の台頭
古来より東西世界はシルクロード(silk road)を通じて交流していましたが、6世紀から7世紀にかけてビザンツ帝国とササン朝ペルシアが争うようになると、両国の国境があるアラビア半島の北側においてシルクロードが途絶えてしまいます。

迂回路として、インドからペルシア湾へ向かうのではなく、南側のアラビア海を抜けて紅海を経由してシリアへ至る海上ルートが使われるようになりました。しかし、紅海を支配するビザンツ帝国が弱体化したことや、ビザンツ帝国と対立するササン朝が海上ルートを封鎖したことを受けて、紅海ルートもまた廃れていくことになります。
さらなる迂回路として、インドからアラビア海へ抜けて、イエメンからアラビア半島へ上陸し、さらにアラビア半島西部のヒジャーズ地方を縦断するキャラバン・ルートを経由してシリアへ至る陸上ルートが構築されます。古くからヒジャーズ地方において中継貿易に従事し過酷な環境に適応していたアラブ商人は、砂漠を縦断するキャラバン・ルートにおいて活躍します。その結果、ヒジャーズ地方の内陸都市であるメッカおよびメディアが再構築されたシルクロードの中継都市として繁栄し、そこを母体にイスラーム教とその国家が台頭することとなります。
ムハンマドとイスラム教の成立
ムハンマド(Muhammad、570頃〜632)は、メッカを拠点とするアラブ人の有力部族であるクライシュ族(Quraysh)のハーシム家(Hashemites)に生まれました。ムハンマドは幼くして両親を失い、叔父に育てられ、後に商人として成功します。25歳の頃に取引先の裕福な未亡人ハディージャ(Khadija)と結婚します。後に彼女はムハンマドの最初の信者となり、彼を支えます。
ムハンマドの出身地であるメッカはシルクロードの中継都市ないし多神教信仰の聖地として繁栄していました。その反面、アラビア半島では貧富の差が拡大するとともに、利権をめぐって部族どうしの抗争が頻発していました。また、部族ごとに異なる神々を崇拝する状況は部族間の対立を生む原因になるとともに、神殿に祀られた偶像が金儲けの道具として利用されるなど宗教的な腐敗も進んでいました。このような状況において、ムハンマドは商人として旅先でビザンツ帝国やササン朝などの統一国家の存在を知るとともに、取引相手であるキリスト教徒やユダヤ教徒から見聞きした一神教について学びながら、アラブの将来について想いを馳せるようになります。
610年頃、当時40歳のムハンマドがメッカ近郊にあるヒラ―山(Hira)で瞑想していたところ、突如として金縛りにあいます。そのとき天から天使ジブリール(Jibril)が現れ、ムハンマドに対して唯一神アッラー(Allah)からの啓示を授けました。この啓示をまとめたものがイスラム教の聖典「コーラン(Quran)」です。ムハンマドは神から啓示を授けられた預言者(nabi)であると自覚し、厳格な一神教であるイスラム教(Islam)を唱えます。イスラム教は「神は唯一であり、ムハンマドは神の使徒であることを信じ、コーランを神の言葉と認める」宗教です。イスラム教の信者をムスリム(Muslim)と呼びます。
ムハンマドが受けた啓示の中には、富の独占や多神教、偶像崇拝を批判する内容が含まれていたため、メッカの富裕な商人たちはムハンマドの教えを危険視し、彼を迫害します。
622年、ムハンマドはメッカ商人からの迫害から逃れるために北方のヤスリブ(Yathrib)へ移住します。ヤスリブにはユダヤ教徒が多く、同じく一神教であるムハンマドの教えに一定の理解を示しました。そこでムハンマドはヤスリブにイスラム教徒の共同体であるウンマ(Umma)を成立させて布教活動を行います。以後、ヤスリブは「預言者の町」を意味するメディナ(Medina)と呼ばれるようになります。ムハンマドによるヤスリブへの移住をヒジュラ(Hijra)や聖遷などと呼びます。ヒジュラが行われた622年がイスラム暦における紀元元年です。
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