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イスラム教の成立

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イスラム教が登場する以前のアラビア半島

アラビア半島(Arabian peninsula)の大部分は砂漠に覆われているものの、西部のヒジャーズ地方(Hijaz)にはオアシス都市が点在し、南部のイエメン地方(Yemen)は肥沃な農耕地帯です。セム系のアラブ人(Arabs)はこれらの地域において羊やラクダなどを飼育する遊牧や、小麦やナツメなどを栽培する農業に従事していました。

図:アラビア半島とシルクロード
図:アラビア半島とシルクロード
注(アラブ人とベドゥイン)
アラビア語を母語とし、アラブ文化を共有し、アラビア半島に住むセム系の民族をアラブ人と呼びます。アラビア人とも呼ばれます。一方、アラブ人の中でも、アラビア半島の砂漠で遊牧生活を営む人々をベドゥイン(Bedouin)と呼びます。これはアラビア語で「砂漠の民」を意味します。

アラビア半島の北に位置するシリアのダマスカス(Damascus)は東西交易の交差点としてビザンツ帝国(Byzantine Empire)およびササン朝ペルシア(Sasanian Empire)との交易の窓口になっていました。アラブ人はキャラバン(caravan)と呼ばれる隊商を編成して北のダマスカスと南のイエメンを結ぶ中継貿易(intermediary trade)を行い、香料やスパイス、絹やガラス製品などを運んでいました。

注(キャラバン)
商業目的で長距離を移動する商人の一団のことを隊商と呼びますが、特に、砂漠や草原などの過酷な行路を移動するためにラクダや馬、ロバなどの家畜を利用する隊商をキャラバンと呼びます。アラビア半島は砂漠に覆われており、乾燥に強いラクダが使われます。ラクダにはこぶが1つのヒトコブラクダと、こぶが2つあるフタコブラクダがいますが、アラビアに生息するのはヒトコブラクダです。ラクダのコブは脂肪の塊であり、栄養がとれないときには脂肪を使ってエネルギーを作り出します。脂肪が使われるとこぶは少しずつ小さくなり、最終的には空気の抜けた風船のようにしぼんでしまいます。

図:キャラバン
図:キャラバン
注(中継貿易)
貿易には様々な形態がありますが、自国で生産ないし加工した商品を他国に輸出したり、自国で生産できないものや不足しているものを輸入するのではなく、他国から輸入したものをそのまま別の国へ輸出する貿易形態を中継貿易と呼びます。イスラム教が成立する以前のアラブ商人は、イエメンの香料やインドのスパイスをダマスカスへ輸出し、逆に、ビザンツ帝国のガラス製品やササン朝ペルシアの貴金属をイエメンへ輸出しました。この交易ルートは香料の道(incense trade route)と呼ばれます。

イスラム教が登場する以前のアラビア半島には国家や法制度のような統一的な政治機構は存在せず、血縁関係を基盤とした社会集団である部族(qabila)が人々の安全・生活を支える役割を果たしていました。人々は血縁関係を重視し、同じ祖先を持つ部族どうしが連合する一方で、資源や交易利権を巡る部族間の抗争も頻発しました。

アラブ人は部族ごとに神が異なり、メッカ(Mecca)にあるカーバ神殿(Kaaba)には様々な神の像が祀られていました。イスラム教が登場する以前のアラビア半島は多神教世界であったということです。その一方で、アラブ人は交易などを通じてキリスト教徒やユダヤ教徒と交流していたため、一神教の概念は知られていました。

注(カーバ神殿)
現在、メッカにあるカーバ神殿はイスラム教における最高の聖地とみなされていますが、イスラム教が成立する以前には神殿の内部に多神教の偶像が収められており、壁には神々の姿が描かれていました。「カーバ」という言葉はアラビア語で「立方体」を意味します。文字通りカーバ神殿はほぼ立方体の形であり、長さ約12メートル、奥行き約10メートル、高さ約15メートルの石造りの建物です。建物の全体は黒い布で覆われており、神殿の東の角には「ハジャルル・アスワド」と呼ばれる石がはめ込まれています。アラビア語で「黒い石」を意味するこの石は、神殿を建てた際に天使が運んできたと言われている神聖な石であり、隕石であるという説もあります。

図:カーバ神殿
図:カーバ神殿

 

アラブ人の台頭

古来より東西世界はシルクロード(silk road)を通じて交流していましたが、6世紀から7世紀にかけてビザンツ帝国とササン朝ペルシアが争うようになると、両国の国境があるアラビア半島の北側においてシルクロードが途絶えてしまいます。

図:アラビア半島とシルクロード
図:アラビア半島とシルクロード

迂回路として、インドからペルシア湾へ向かうのではなく、南側のアラビア海を抜けて紅海を経由してシリアへ至る海上ルートが使われるようになりました。しかし、紅海を支配するビザンツ帝国が弱体化したことや、ビザンツ帝国と対立するササン朝が海上ルートを封鎖したことを受けて、紅海ルートもまた廃れていくことになります。

さらなる迂回路として、インドからアラビア海へ抜けて、イエメンからアラビア半島へ上陸し、さらにアラビア半島西部のヒジャーズ地方を縦断するキャラバン・ルートを経由してシリアへ至る陸上ルートが構築されます。古くからヒジャーズ地方において中継貿易に従事し過酷な環境に適応していたアラブ商人は、砂漠を縦断するキャラバン・ルートにおいて活躍します。その結果、ヒジャーズ地方の内陸都市であるメッカおよびメディアが再構築されたシルクロードの中継都市として繁栄し、そこを母体にイスラーム教とその国家が台頭することとなります。

 

ムハンマドとイスラム教の成立

ムハンマド(Muhammad、570頃〜632)は、メッカを拠点とするアラブ人の有力部族であるクライシュ族(Quraysh)のハーシム家(Hashemites)に生まれました。ムハンマドは幼くして両親を失い、叔父に育てられ、後に商人として成功します。25歳の頃に取引先の裕福な未亡人ハディージャ(Khadija)と結婚します。後に彼女はムハンマドの最初の信者となり、彼を支えます。

ムハンマドの出身地であるメッカはシルクロードの中継都市ないし多神教信仰の聖地として繁栄していました。その反面、アラビア半島では貧富の差が拡大するとともに、利権をめぐって部族どうしの抗争が頻発していました。また、部族ごとに異なる神々を崇拝する状況は部族間の対立を生む原因になるとともに、神殿に祀られた偶像が金儲けの道具として利用されるなど宗教的な腐敗も進んでいました。このような状況において、ムハンマドは商人として旅先でビザンツ帝国やササン朝などの統一国家の存在を知るとともに、取引相手であるキリスト教徒やユダヤ教徒から見聞きした一神教について学びながら、アラブの将来について想いを馳せるようになります。

610年頃、当時40歳のムハンマドがメッカ近郊にあるヒラ―山(Hira)で瞑想していたところ、突如として金縛りにあいます。そのとき天から天使ジブリール(Jibril)が現れ、ムハンマドに対して唯一神アッラー(Allah)からの啓示を授けました。この啓示をまとめたものがイスラム教の聖典「コーラン(Quran)」です。ムハンマドは神から啓示を授けられた預言者(nabi)であると自覚し、厳格な一神教であるイスラム教(Islam)を唱えます。イスラム教は「神は唯一であり、ムハンマドは神の使徒であることを信じ、コーランを神の言葉と認める」宗教です。イスラム教の信者をムスリム(Muslim)と呼びます。

注(アッラー)
「アッラー」とはアラビア語で「神」を表す一般名詞です。イスラム教が登場する以前のアラブ人は多神教信仰でしたが、アッラーはその中で最も崇拝される神でした。そこで、ムハンマドはイスラム教を創始するにあたり、このアッラーを唯一神と位置づけました。

注(預言者と使徒)
イスラム教において「預言者(ナビ―)」とは、神から啓示を受けた者を指します。一方、「使徒(ラスール)」とは、神から受けた啓示を他人に伝える使命を負う預言者を指します。イスラム教では、旧約聖書に登場するノアやアブラハム、モーセなどの預言者たちや、新約聖書に登場するイエスを歴代の預言者として認めます。さらに、ムハンマドは最後の預言者であり、なおかつ神の使徒であるものと位置づけます。ただ、ムハンマドは神に選ばれた人間であるとはいえ、それ以上の存在ではなく、あくまでも人間として捉えられています。

注(コーラン)
コーランは、ムハンマドが神から受けた啓示をまとめたイスラム教の経典です。正しくは、アル・クルアーン(al-Quran)であり、これは「朗読」を意味するアラビア語です。コーランはアラビア語で書かれており、またコーランは神の言葉そのものとみなされているため、コーランをアラビア語以外の言語に翻訳することはできないとされています。ムハンマドは読み書きができなかったため、コーランはムハンマドによって書かれたわけではなく、ムハンマドの死後、彼の言葉を暗唱していた人々によって文字化されました。

注(ムスリム)
「イスラーム」とは「唯一神への絶対服従」という意味のアラビア語です。また、「ムスリム」とは「イスラームする人」という意味のアラビア語であり、したがってその意味は「唯一神へ絶対服従する人」となります。

ムハンマドが受けた啓示の中には、富の独占や多神教、偶像崇拝を批判する内容が含まれていたため、メッカの富裕な商人たちはムハンマドの教えを危険視し、彼を迫害します。

622年、ムハンマドはメッカ商人からの迫害から逃れるために北方のヤスリブ(Yathrib)へ移住します。ヤスリブにはユダヤ教徒が多く、同じく一神教であるムハンマドの教えに一定の理解を示しました。そこでムハンマドはヤスリブにイスラム教徒の共同体であるウンマ(Umma)を成立させて布教活動を行います。以後、ヤスリブは「預言者の町」を意味するメディナ(Medina)と呼ばれるようになります。ムハンマドによるヤスリブへの移住をヒジュラ(Hijra)や聖遷などと呼びます。ヒジュラが行われた622年がイスラム暦における紀元元年です。

 

演習問題

問題(西暦とイスラム暦)
キリスト教ではキリストが生誕した年を紀元元年とするのに対し、イスラム教ではムハンマドの生誕した年ではなく、ヒジュラの年を紀元元年とします。この違いは何に起因しているか説明してください。

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