『漢書』地理志と百余国:文字資料からたどる最初の倭人社会

『漢書』地理志に記された「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる」という記述をもとに、紀元前後の倭人社会を解説します。中国史書と考古学資料を組み合わせながら、百余国とはどのような政治勢力だったのか、楽浪郡との交流や当時の東アジア世界の中での倭人の姿をわかりやすく学びます。

はじめに

日本列島には旧石器時代や縄文時代から人々が暮らしていました。弥生時代に入ると水田稲作が広まり、集落が大きくなり、地域ごとに有力な集団が現れるようになります。しかし、その時代を生きた人々が、自分たちの政治や社会について書き残した歴史書は現存していません。そのため、日本列島の政治勢力について文字史料から歴史をたどろうとすると、最初は中国の歴史書に頼らざるを得ません。

中国側の記録に現れる最初期の倭人社会は、後の統一国家とは大きく異なっていました。そこには、一人の君主が列島全体を支配する姿ではなく、多数の小さな政治勢力が海を越えて東アジア世界と接触する姿が描かれています。

この章では『漢書』地理志に記された短い文章を手がかりとして、紀元前後の倭人社会がどのようなものであったのかを考えます。

 

日本側の同時代史料が残されていないこと

日本で現存する最古の歴史書は、712年に完成した『古事記』と、720年に完成した『日本書紀』です。しかし、『漢書』地理志が伝える倭人社会は、それより700年以上前の時代に属します。

『古事記』や『日本書紀』には、神々の時代、歴代天皇、各地の豪族、戦争や祭祀などについて多くの物語が記されています。とはいえ、それらは紀元前後の出来事を同時代に記録した史料ではありません。長い年月を経て伝承され、8世紀の国家の立場から整理・編集されたものです。したがって、紀元前後の日本列島について考える際には、次の三種類の資料を使い分ける必要があります。

第一は、中国の歴史書です。中国の史書は、日本列島の人々について同時代に近い情報を伝えています。ただし、それは倭人自身が書いたものではなく、中国側から見た外国人の記録です。

第二は、考古学資料です。住居跡、集落、墓、土器、青銅器、鉄器、人骨、水田跡などは、その時代に実際に残された物的証拠です。しかし、遺物や遺跡は、王の名前や外交事件の年月を直接語ってはくれません。

第三は、『古事記』『日本書紀』などの後世の文献です。これらは日本側の伝承を伝える重要な史料ですが、成立年代が遅いため、記された内容をそのまま紀元前後の事実として扱うことはできません。

この三者には、それぞれ異なる長所と限界があります。

$$\begin{array}{ccc}
\hline
資料 & 分かること & 限界 \\ \hline
中国史書 & 倭人の存在、外交、政治勢力の呼称 & 中国側の視点で書かれている \\ \hline
考古学資料 & 生活、集落、墓、技術、交流の実態 & 人名や事件名は分からない \\ \hline
『古事記』『日本書紀』 & 日本側の王統・氏族・神話・伝承 & 同時代より大幅に後に成立 \\ \hline
\end{array}$$

古代史を考えることは、一つの史料を信じることではありません。性格の異なる資料を照らし合わせ、どこまで確実に言えるかを慎重に見定めることです。

 

『漢書』地理志の成立と記述

日本列島の倭人について記した現存最古級の信頼できる文字史料が『漢書』地理志です。

『漢書』は前漢の歴史を記した中国の歴史書です。前漢は紀元前202年から紀元後8年まで続いた王朝であり、『漢書』は後漢時代の班固らによって編纂されました。

その地理志には、次の一文があります。

楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来たり献見すという。

原文は以下の通りです。

樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。

わずか二十数文字の文章ですが、日本列島の政治史を考える上で極めて重要な情報が含まれています。この文章から、少なくとも次のことが読み取れます。

  • 楽浪郡の海の向こうに、倭人と呼ばれる人々がいた。
  • 倭人は、一つの国ではなく百余りの国に分かれていた。
  • 倭人の一部は、時折、楽浪郡を通じて漢の世界と接触していた。
  • 彼らは貢物を持参し、漢側の官人に面会していた。

ただし、この文章は特定の年に起きた事件を記したものではありません。「ある年に誰が使者を送った」という記録ではなく、前漢末頃までに中国側が把握していた倭人社会の一般的状況を簡潔にまとめたものと考えられます。したがって、『漢書』地理志は、日本列島の具体的な王名や国名を伝える史料ではありません。それでも、後世の国家が成立するはるか以前に、倭人の社会がすでに多数の政治単位に分かれ、海の向こうの大国と接触していたことを教えてくれます。

 

「楽浪海中」の意味

『漢書』は、倭人が「楽浪海中」にいると記しています。ここでいう楽浪とは、朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡を指します。

前漢の武帝は紀元前108年、朝鮮半島北部の衛氏朝鮮を滅ぼし、その地域に楽浪郡などの行政区を設置しました。楽浪郡は、現在の平壌付近を中心とした、中国王朝の東方支配と外交の拠点でした。したがって、「楽浪海中」とは、楽浪郡から見て海の向こう側に倭人が住んでいた、という意味です。これは現代の正確な地理表現ではありません。中国側から見れば、朝鮮半島を越えた先にある海上世界、そのさらに先の島々に倭人が住んでいるという認識でした。

図:紀元前1世紀頃の東アジアと倭人の世界
図:紀元前1世紀頃の東アジアと倭人の世界

ここで重要なのは、中国と倭の間に、直接一本の航路だけが存在したわけではないことです。倭人が漢の世界へ向かう場合、一般には次のような経路をたどったと考えられます。

  1. 日本列島西部
  2. 対馬海峡
  3. 朝鮮半島南部
  4. 楽浪郡
  5. 中国王朝の行政・外交秩序

日本列島と中国大陸の間には、朝鮮半島という重要な中継地域がありました。そのため、倭人の国際交流は中国との二国間関係だけではありませんでした。朝鮮半島南部の諸勢力、楽浪郡の官人、海上交通を担う人々など、複数の集団を介して成立していました。

「楽浪海中」という短い表現からは、当時の中国側が倭を東方の海上世界に位置する遠方の人々として理解していたことが分かります。同時に、その遠方の人々が、海によって完全に隔てられていたわけではないことも分かります。海は障壁であると同時に、交通路でもありました。

 

「倭人」とは誰か

『漢書』は、日本人や日本国という言葉を使っていません。記されているのは「倭人」です。

「倭」は、中国側が日本列島方面の人々を呼ぶために用いた名称です。その語が当時どの範囲の人々を指していたかは、必ずしも明確ではありません。少なくとも、『漢書』地理志の記述からは、中国側が日本列島の全地域を詳しく知っていたとは考えにくいでしょう。中国側に情報を伝えたのは、実際に楽浪郡へ赴いた人々や、朝鮮半島を通じて倭人と接触した人々だったと考えられます。そのため、『漢書』の「倭人」は、まず対馬、壱岐、北部九州を中心とする、西日本の海上交通圏に属する人々を指していた可能性が高いと考えられます。しかし、それがどこまで東方へ広がっていたかは分かりません。

ここで注意したいのは、「倭人」が統一された一民族や一国家を意味するとは限らないことです。当時の日本列島には、地域ごとに異なる生活文化が存在していました。北部九州を中心に水田稲作を行う弥生文化が広がる一方、北海道では続縄文文化が続き、南西諸島にも本州・九州とは異なる文化が存在しました。国立歴史民俗博物館も、弥生時代の列島には単一の文化ではなく、複数の文化が並存していたと説明しています。したがって、中国側が「倭人」と一括して呼んだ人々も、内部では言葉、習慣、政治関係、生活様式に違いがあった可能性があります。「倭人」とは、倭人自身が統一的に名乗った民族名というより、中国側から見た海の向こうの人々の総称だった可能性を考えておく必要があります。

 

「百余国」とはどのような政治単位か

『漢書』地理志の記述で最も印象的なのは、「分かれて百余国となる」という部分です。当時の倭人社会は、一つの統一国家ではなく、多数の「国」に分かれていました。

しかし、ここでいう「国」を、現代の国家と同じものと考えてはいけません。現代の国家には、明確な国境、中央政府、法律、官僚組織、軍隊などがあります。紀元前後の倭人の「国」は、それよりはるかに小さな政治単位だったと考えられます。一つの大きな集落を中心に、周辺の小集落が結びついたものだったかもしれません。あるいは、いくつかの集落を有力な首長がまとめていた可能性もあります。その範囲は、現在の市町村程度であった場合もあれば、河川流域や平野の一部を含む、もう少し広い地域だった場合もあったでしょう。

国を成り立たせる中心には、首長と呼べる人物がいたと考えられます。首長は、単に武力が強い人物ではありません。水田や用水の管理、農作物の分配、祭祀、交易、争いの調停などを通じて、集団をまとめる役割を果たしていたと考えられます。とくに水田稲作では、用水路の整備や水の配分に共同作業が必要です。複数の家族や集落をまとめる指導者の役割は、農業生産の拡大とともに重要になったでしょう。また、朝鮮半島から入ってくる鉄器、青銅器、ガラス製品などを入手できる首長は、他の集団より優位に立つことができました。希少な品を手に入れ、それを配下の人々や周辺集団に分け与えることで、首長は権威を高めることができたと考えられます。

図:中国鏡・鉄器・ガラス玉
図:中国鏡・鉄器・ガラス玉

「百余国」という数字を、正確な国勢調査の結果とみなす必要はありません。中国側が倭人の国を一つずつ数えたとは考えにくく、「非常に多くの国に分かれていた」という概数である可能性があります。しかし、数字が正確かどうか以上に重要なのは、中国側が倭人社会を、多数の政治集団が並立する世界として認識していたことです。後の日本列島に成立する統一的な王権は、このような百余国の世界から生まれてきます。

 

「歳時を以て来たり献見す」から分かること

『漢書』は、倭人が「歳時を以て来たり献見す」と記しています。この部分は、倭人が時折、貢物を持って楽浪郡の官人に面会していた、という意味に理解できます。この記述は短いものですが、背後にはかなり高度な社会的能力が存在していたことを示しています。

まず、使者を海の向こうへ送るには船が必要です。当時の航海は、現代のように正確な海図や気象予報を利用できるものではありません。潮流、風向き、島の位置、海岸線などについて、経験に基づく知識が必要でした。対馬海峡を渡るためには、対馬や壱岐などを中継しながら航海する技術と、海上交通に習熟した人々が必要だったでしょう。

次に、外交使節を組織する政治力が必要です。誰を使者として派遣するのか、どのような貢物を持たせるのか、航海に必要な食料や人員をどう準備するのかを決めなければなりません。使節は、単なる旅人ではありません。自分たちの政治集団を代表し、異なる言葉や習慣を持つ相手と交渉する人物です。そこには、通訳や朝鮮半島の事情に詳しい案内人が関与した可能性もあります。

さらに、貢物を用意できる経済力も必要です。何が献上されたかは『漢書』には書かれていませんが、地域の産物、布、食料、奴隷、珍しい品などが選ばれた可能性があります。それらを集めることができたのは、一定の範囲から物資を徴収または動員できる首長だったと考えられます。

つまり、「来たり献見す」という短い記述は、当時の倭人社会に、航海技術、海上交通網、使節を派遣する政治組織、貢物を集める経済力、外国との交渉経験などが存在していたことを示唆します。

もちろん、百余国のすべてが楽浪郡へ使者を送っていたとは限りません。大陸との交通に近い北部九州などの一部の国が、他の国に先んじて外交を行っていた可能性があります。その場合、海外との接触は、国内の政治関係にも大きな影響を与えたでしょう。中国や朝鮮半島から希少な品を持ち帰った首長は、それを自らの権威の象徴として用いることができたからです。海を越える能力は、単なる技術ではありませんでした。それは、その国の首長が他国より優位に立つための政治的な力でもあったのです。

 

楽浪郡を中心とする東アジア秩序

倭人の遣使を理解するためには、当時の東アジアを、中国と日本の二国だけで考えないことが重要です。

紀元前後の東アジアには、巨大な漢帝国を中心として、その周囲にさまざまな政治勢力が存在していました。中国の皇帝は、自らを天下の中心と考えていました。周辺の国や首長が使者を送り、貢物を献じると、皇帝や地方官は返礼品を与え、場合によっては王号や印綬を授けました。これは単なる贈り物の交換ではありません。誰が正統な王であるかを、中国皇帝の権威によって示す政治的な関係でした。

ただし、『漢書』地理志に記された倭人の「献見」が、後世の完成した冊封制度と同じ形式だったと断定することはできません。この時期には、倭人の使者がまず楽浪郡の官人と接触し、交易や外交を行った段階だった可能性があります。楽浪郡は、中国帝国の東端に位置する行政拠点であると同時に、周辺世界と中国をつなぐ国際都市でもありました。そこには、中国系の官人や商人だけでなく、朝鮮半島の各地域から来た人々、遠方から交易に訪れた人々が集まっていたと考えられます。倭人にとって楽浪郡は、単なる外国の役所ではありませんでした。そこは、当時の最先端の物品、技術、情報、政治的権威へ接続する窓口でした。

倭人が楽浪郡を訪れることによって得られたものとして、次のようなものが考えられます。

  • 鉄素材や鉄器
  • 銅鏡
  • ガラス製品
  • 貨幣
  • 布や装身具
  • 金属加工技術
  • 大陸の政治や外交に関する情報

とくに鉄は重要でした。鉄製農具は土地の開墾や農作業に役立ち、鉄製武器は戦闘力を高めます。そのため、朝鮮半島から鉄や鉄器を得られる国は、農業生産と軍事力の両面で有利になる可能性がありました。国立歴史民俗博物館の研究でも、弥生時代の金属器の流通と管理は、祭祀による集団統合や、後の列島規模の政治秩序が成立する過程を考える上で重要な問題とされています。

楽浪郡との交流は、倭人社会を外から一方的に変えたわけではありません。倭人側も、自らの目的を持って海を渡りました。外国の品や権威を利用し、国内での地位を高めようとする首長がいた可能性があります。このように見ると、倭人は東アジア世界の受動的な周辺住民ではありません。巨大な漢帝国の東方に位置しながら、海を渡り、情報や物資を獲得し、それを自らの社会の発展に利用しようとする主体でもありました。

 

考古学から見た当時の倭人社会

『漢書』地理志の記述は非常に短く、人々がどのように暮らしていたかまでは説明していません。そこで、考古学資料によって当時の社会を具体的に見ていく必要があります。

  1. 水田稲作と集落の成長
    紀元前後の西日本では、水田稲作を基盤とする弥生文化が発達していました。稲作は、人々に安定した食料をもたらしました。一方で、水田を作るには土地を整え、用水路を掘り、水を管理しなければなりません。収穫期には多くの人手が必要です。そのため、稲作の拡大は集団の協力を促すと同時に、土地や水をめぐる争いを生む可能性もありました。集落が大きくなると、複数の集落をまとめる有力者が現れます。その有力者は、農作業の指揮、用水の管理、祭祀、争いの調停などを通じて、次第に首長としての権威を強めたと考えられます。
  2. 環濠集落
    弥生時代には、周囲を堀で囲んだ環濠集落が各地に現れました。環濠には、集落の境界を示す役割、排水の役割、防御の役割などがあったと考えられます。国立歴史民俗博物館は、弥生時代には人を殺傷するための武器が現れ、集落が堀や土塁などの防御施設で囲まれるようになったと説明しています。すべての環濠集落が戦争のために築かれたわけではありません。しかし、集落間の緊張や争いが存在したことはうかがえます。大きな環濠集落の内部には、住居、倉庫、祭祀施設などが設けられ、周辺の小集落よりも強い影響力を持っていた可能性があります。こうした大規模集落が、『漢書』のいう「国」の中心だったと考えることもできます。

    図:環濠集落
    図:環濠集落
  3. 墓の格差
    弥生時代の墓を見ると、人々の間に明確な格差が現れてきたことが分かります。一般の人々が簡素な墓に埋葬される一方で、一部の人物は大きな墓に葬られ、多数の副葬品を伴っていました。北部九州の有力者の墓からは、中国鏡、青銅武器、ガラス製品、玉類などが出土しています。これらは日常生活に必要な品ではありません。首長の権威、外国とのつながり、豊かさを示す特別な品でした。大陸系の品が限られた墓に集中していることは、外国との交易を一部の有力者が掌握していた可能性を示します。つまり、海外交流によって得られた品は、社会全体に均等に配られたのではなく、首長の権力を支える資源として利用されたと考えられます。
  4. 青銅器と祭祀
    弥生時代には、銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸などの青銅器が用いられました。これらの多くは、実際の武器や道具というより、祭祀のための品として大型化・特殊化していきました。地域によって使用される青銅器には違いがありました。北部九州では銅剣や銅矛、瀬戸内や近畿では銅鐸が多く見られるなど、祭祀文化には強い地域差がありました。この地域差は、当時の「百余国」が単なる行政区画ではなく、それぞれ異なる祭祀や政治的伝統を持つ集団だったことを示している可能性があります。首長は、農業や戦争を指揮するだけでなく、神々への祭りを取り仕切る人物でもあったでしょう。政治と祭祀は、まだ明確に分かれていませんでした。豊作、雨、集団の安全、戦いの勝利などを祈る祭祀を担うことは、首長の重要な役割だったと考えられます。
  5. 鉄器と社会変化
    鉄器は、弥生社会に大きな変化をもたらしました。鉄製の斧、鎌、鋤先などは、木を切り、土地を開き、農作業を行う上で役立ちました。また、鉄製の武器は戦闘力にも関係しました。しかし、日本列島では鉄素材を十分に生産できなかったため、初期の鉄は主に朝鮮半島から持ち込まれたと考えられています。そのため、鉄の流通路を確保できる国と、確保できない国の間には差が生まれたでしょう。海外交易を掌握する首長は、鉄器を配ることで周辺集団との関係を強めることができました。ここでも、海上交通と政治権力は結びついていました。

 

史料から言えることと言えないこと

『漢書』地理志の一文と考古学資料を組み合わせると、紀元前後の倭人社会について、ある程度の姿を描くことができます。しかし、確実に分かることと、推測にとどまることを区別しなければなりません。

  1. 比較的確実に言えること
    • 紀元前後の日本列島西部には、中国側から「倭人」と呼ばれる人々がいた。
    • その社会は、一つの統一国家ではなく、多数の政治単位に分かれていた。
    • その一部は、海を渡り、朝鮮半島の楽浪郡と交流していた。
    • 遣使を行った集団は、船、航海知識、人員、貢物を用意できる政治力と経済力を持っていた。
    • 当時の西日本では、水田稲作が広がり、大規模な集落や環濠集落が形成されていた。
    • 墓や副葬品には格差があり、有力な首長層が形成されていた。
    • 中国や朝鮮半島からもたらされた鉄器、鏡、ガラス製品などは、首長の権威と深く関係していた。
  2. 推察できること
    • 『漢書』の「国」は、大きな集落と周辺集落をまとめた首長制的な政治単位だった可能性がある。
    • 楽浪郡への遣使は、北部九州など、大陸との交通に近い国々が中心になって行った可能性がある。
    • 海外交易を掌握した首長は、外国製品を利用して国内での地位を高めた可能性がある。
    • 百余国の間には、交易、同盟、競争、戦争など、さまざまな関係が存在したと考えられる。
    • 農業生産の拡大と海外交流は、一部の首長の権力を強め、国どうしの格差を広げた可能性がある。
  3. まだ分からないこと
    • 百余国が具体的にどこに存在したのかは分からない。
    • 「百余」という数字が正確な国数だったかどうかも分からない。
    • どの国が楽浪郡へ使者を送ったのかは記されていない。
    • 使者の名前や、その国の王の名前も分からない。
    • 貢物として何を持参したのかも分からない。
    • 当時、大和地方に後の天皇家へつながる政治勢力が存在していたかどうかも判断できない。
    • 倭人が自分たちを「倭」と呼んでいたかどうかも分からない。
    • 中国側の「国」という言葉が、倭人自身の政治単位と完全に一致していたかも分からない。

 

おわりに―百余国の世界

『漢書』地理志が伝える倭人社会には、後世の日本国家の姿はまだ見えません。そこにあるのは、一人の王がすべてを支配する世界ではなく、百余りの国が並び立つ世界です。それぞれの国には、農業を営む人々が暮らし、集落をまとめる首長がいました。首長たちは水田や物資を管理し、祭祀を行い、ときには他の国と争ったでしょう。

その一部は、海の向こうへ目を向けました。彼らは船を出し、対馬海峡を渡り、朝鮮半島へ赴きました。その先には、広大な領土、都市、文字、金属器、官僚組織を持つ漢帝国の世界が広がっていました。倭人にとって、海の向こうの世界との接触は、大きな衝撃だったはずです。鉄器や鏡とともに、より大きな政治秩序の存在を知ったからです。

一方、漢帝国から見れば、倭人は東方の海上に住み、時折貢物を持って現れる遠方の人々でした。両者の力は対等ではありませんでした。しかし、倭人はただ一方的に漢の文化を受け入れたのではありません。外国の品、技術、権威を自らの社会に持ち帰り、それを政治的に利用しました。海上交流に成功した国や首長は、他の国よりも強い力を持つようになった可能性があります。

『漢書』地理志に記された百余国の世界は、静止した社会ではありません。稲作の発展、人口の増加、鉄器の流入、集落の拡大、首長間の競争によって、政治の規模が少しずつ大きくなっていく、動きのある世界でした。やがて、この百余国のなかから、中国の歴史書に名前を記される国と王が現れます。それが、次の時代に登場する奴国と、その王です。

 

演習問題

問題(史料の理解)
『漢書』地理志には、倭人について次のように記されています。「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来たり献見すという。」以下の問いに答えてください。

  1. 「百余国」とは、当時の倭人社会についてどのようなことを示していますか。
  2. 「歳時をもって来たり献見す」という記述から分かることを2つ挙げてください。
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問題(史料の性格)
紀元前後の日本列島について研究する際、中国の歴史書が重要な史料となる理由を説明してください。また、その一方で、中国史書を利用する際に注意しなければならない点も述べてください。

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問題(考古学との関係)
考古学では、弥生時代の環濠集落や首長墓、中国鏡、鉄器などが発見されています。これらの発見は、『漢書』地理志に描かれた倭人社会を理解する上で、どのような意味を持っていますか。

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問題(東アジア世界)
楽浪郡は、当時の東アジア世界においてどのような役割を果たしていましたか。また、倭人にとって楽浪郡との交流はどのような意義を持っていたと考えられますか。

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問題(考察問題)
『漢書』地理志には、「百余国」の名前や王の名前はほとんど記されていません。それにもかかわらず、この短い文章が日本古代史研究において重要である理由を、本文の内容を踏まえて説明してください。

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