空白の150年の終わり
3世紀後半、邪馬台国の女王・卑弥呼は魏へ使者を送り「親魏倭王」の称号を受けました。その後、卑弥呼が没すると男王が立てられましたが国内は再び混乱し、最終的には壱与(台与)が王となって魏との外交を再開しました。しかし、それ以降、中国の歴史書から倭に関するまとまった記録は長く姿を消します。
この約150年間、日本列島では何が起こっていたのでしょうか。考古学によれば、この時代には前方後円墳が急速に各地へ広がり、纒向遺跡を中心とした政治勢力はさらに発展し、後に「ヤマト王権」と呼ばれる広域政権が形成されていきました。しかし、その過程を伝える日本側の同時代史料は残されていません。そのため、この時代は「空白の150年」と呼ばれています。
この空白を破るように、中国の歴史書に再び倭が姿を現します。それが『宋書』倭国伝です。『宋書』は中国南朝の一つである宋(420〜479年)の歴史を記した正史で、南朝梁の歴史家・沈約(441〜513年)によって488年頃に編纂されました。宋王朝に提出された公文書や外交記録をもとにまとめられた史書であり、5世紀の東アジア情勢を知るうえで極めて重要な史料です。
『宋書』倭国伝には、5世紀を通じて中国皇帝へ繰り返し朝貢した五人の倭王、すなわち讃・珍・済・興・武の活動が記されています。『魏志倭人伝』に登場した卑弥呼の時代から約200年後、中国史書に再び現れた倭は、もはや「百余国」に分かれた小国の集まりではありませんでした。一人の王が中国皇帝と外交を行い、朝鮮半島情勢にも積極的に関与する広域政権へと成長していたのです。『宋書』倭国伝は5世紀のヤマト王権を知る最も重要な同時代史料となっています。
倭の五王とは誰だったのか
『宋書』倭国伝には、5世紀に相次いで南朝宋へ使者を派遣した五人の倭王が記されています。彼らは総称して「倭の五王」と呼ばれます。
- 讃(さん)
- 珍(ちん)
- 済(せい)
- 興(こう)
- 武(ぶ)
『宋書』によれば、讃は421年に初めて宋へ使者を送り、その後も珍・済・興・武が代々朝貢を続けました。しかし、中国史書には彼らの系譜や日本国内での出来事は記されていません。一方、『古事記』『日本書紀』には「讃」「珍」といった名前は登場しません。そのため、倭の五王が日本のどの天皇にあたるのかは、現在でも確定していません。
研究者は年代や系譜を比較しながらさまざまな説を提唱しています。代表的なものを挙げると、次のようになります。
$$\begin{array}{cc}
\hline
倭王 & 有力な比定 \\ \hline
讃 & 仁徳天皇または履中天皇 \\ \hline
珍 & 履中天皇または反正天皇 \\ \hline
済 & 允恭天皇 \\ \hline
興 & 安康天皇 \\ \hline
武 & 雄略天皇 \\ \hline
\end{array}$$
もっとも、この対応関係については異説も多く、学界で一致した結論には至っていません。例えば、讃を仁徳天皇とみる説もあれば履中天皇とする説もあり、珍についても複数の見解があります。一方で、武については『宋書』に見える積極的な外交姿勢や、後述する「武王上表文」の内容が『日本書紀』に描かれる雄略天皇の強力な王権と比較的よく対応することから、雄略天皇に比定する説が最も有力とされています。
ワカタケル大王と雄略天皇
倭の五王の中でも、最後に登場する武は特に重要な人物です。現在では、武は『日本書紀』に登場する雄略天皇に比定する説が最も有力とされています。
その理由の一つが考古学の成果です。埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」という名前が刻まれていました。銘文の主人公であるオワケの臣は先祖代々大王に仕えていたことが記されています。これは、東国の有力者が大王の宮廷に出仕し、その奉仕関係を自らの権威の源泉としていたことを示しています。
さらに、熊本県の江田船山古墳から出土した太刀にも、欠損はあるものの「獲加多支鹵」の名が刻まれています。ワカタケルは『日本書紀』に記された雄略天皇の名「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」に対応すると考えられており、5世紀後半に実在した大王の存在を示す重要な史料となっています。

注目すべきことは、この二つの遺物が関東と九州という遠く離れた地域から出土している点です。これは、5世紀後半にはヤマト王権の影響力が畿内だけでなく関東から九州にまで広がり、各地の有力豪族が大王と政治的な結び付きを持っていたことを示しています。
『日本書紀』は雄略天皇を、豪族や皇族との激しい権力闘争を経て強力な王権を築いた天皇として描いています。実際、この頃には大王家の外戚として勢力を持った葛城氏(かつらぎし)が政治の表舞台から後退し、吉備地方でも巨大古墳の築造が終息へ向かいました。これらの変化は、地方勢力と大和王権の関係が再編されたことを示します。また、武王は宋へ提出した有名な上表文の中で、祖先以来、自ら甲冑をまとって各地を平定してきたことを述べたうえで、「東征毛人五十五国」「西服衆夷六十六国」「渡平海北九十五国」と、自らの軍事的功績を誇っています。
これらの出来事がすべて雄略天皇の政策によるものと断定することはできませんが、5世紀後半にヤマト王権が国内統合を大きく進めたことは、文献史料と考古学の双方からうかがうことができます。

倭の五王と巨大古墳
『宋書』倭国伝が伝える倭の五王の時代は、考古学においても大きな変化が見られる時代です。この頃のヤマト王権では、日本列島各地に巨大な前方後円墳が築かれました。これらの古墳は単なる王の墓ではなく、王権の政治力や動員力を象徴する巨大なモニュメントでもありました。
その代表が、大阪府堺市にある大仙古墳(仁徳天皇陵)です。全長約486メートルに及ぶこの古墳は日本最大の前方後円墳であり、世界最大級の墳墓の一つとして知られています。築造には膨大な土木工事が必要であり、多数の人々を長期間にわたって動員できる政治力が存在しなければ実現できませんでした。

また、大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)も全長約425メートルを誇る巨大古墳です。さらに、大阪府高槻市の今城塚古墳は継体天皇陵の有力候補とされ、5世紀末から6世紀初頭にかけての王権の姿を知るうえで重要な遺跡となっています。
これらの巨大古墳が築かれた時期は、『宋書』に記された倭の五王が活躍した時代とほぼ重なっています。巨大古墳の築造も、中国皇帝との外交も、いずれも王権の権威を示す手段でした。国内では巨大古墳によって王の圧倒的な存在感を示し、地方豪族を統合する。一方、国外では中国皇帝から称号を受けることによって国際的な正統性を獲得する。この二つは別々の政策ではなく、同じ目的に向けられた王権強化策として理解することができます。
また、この時代には地方の有力豪族も各地で大型古墳を築いています。しかし、その多くは前方後円墳という共通した形式を採用しており、埴輪や副葬品にも広い共通性が見られます。これは、各地の豪族が独立した王として振る舞っていたのではなく、ヤマト王権を中心とする政治秩序の中で自らの地位を示していたことをうかがわせます。
なぜ中国へ朝貢したのか
5世紀のヤマト王権は国内での王権強化と並行して、なぜ何度も中国の南朝宋へ使者を送り、皇帝から称号を受けることを望んだのでしょうか。当時の東アジアでは中国皇帝を中心とする国際秩序が形成されており、周辺諸国は朝貢を通じて外交関係を築くことが一般的でした。朝貢は中国皇帝への敬意を示す儀礼である一方、周辺諸国にとっては外交上の利益を得るための重要な手段でもありました。ヤマト王権も、自らの政治的目的を実現するために、この国際秩序を積極的に利用したと考えられています。
- 中国皇帝による権威付け
第一の目的は、中国皇帝から正式な称号を受けることにより自らの権威を高めることでした。当時、中国は東アジアで最も高度な文明を持つ国家とみなされ、その皇帝は国際秩序の中心的存在でした。その皇帝から「倭国王」や「安東将軍」といった称号を授与されることは、自らの支配が中国皇帝によって公認されたことを意味します。 - 国内豪族への正統性
第二の目的は、国内統治でした。5世紀のヤマト王権は、後の律令国家のような中央集権国家ではありません。全国各地には強力な豪族が存在し、王権は彼らとの協力関係の上に成り立っていました。そのような状況では、「なぜ自分が全国の王なのか」を豪族たちに示し続ける必要がありました。中国皇帝から授けられた称号は、「東アジア最大の国家が自分を倭王として認めた」という権威の裏付けになります。この国際的な権威は、国内の豪族に対して王権の正統性を示す重要な政治的資源となったと考えられています。 - 朝鮮半島外交
第三の目的は、朝鮮半島をめぐる外交でした。5世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が互いに勢力を争い、南部には加耶諸国が存在していました。ヤマト王権は百済や加耶と深い関係を築き、鉄資源の確保や海上交通路の維持に大きな関心を寄せていました。しかし、朝鮮半島では高句麗が急速に勢力を拡大しており、倭だけで外交や軍事を進めることは容易ではありませんでした。中国皇帝から称号を受けることは、自らが東アジアの有力な政治勢力であることを内外に示す意味を持っていました。中国との外交は、朝鮮半島での影響力を高めるための外交戦略の一環でもあったのです。
中国皇帝が認めた倭王の地位
『宋書』倭国伝には、倭の五王が中国皇帝からさまざまな称号を授けられたことが記されています。当時の東アジアでは中国皇帝が周辺諸国の君主を冊封し、その地位を認めることで国際秩序を形成していました。そのため、中国皇帝からどのような称号を授けられたかは、倭王が東アジアの国際社会においてどのような立場にあったかを知る重要な手がかりとなります。
『宋書』によれば、倭王が受けた称号は次のように変化していきました。
$$\begin{array}{ccc}
\hline
年 & 倭王 & 中国皇帝から授けられた称号 \\ \hline
421年 & 讃 & 爵位 \\ \hline
438年 & 珍 & 安東将軍・倭国王 \\ \hline
443年 & 済 & 安東将軍・倭国王 \\ \hline
451年 & 済 & 使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王 \\ \hline
462年 & 興 & 安東将軍 \\ \hline
478年 & 武 & 使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王 \\ \hline
\end{array}$$
421年、倭王讃は宋へ朝貢し、初めて爵位を授けられました。その後、438年には倭王珍が「安東将軍・倭国王」に任じられ、中国皇帝から正式な国王として認められます。さらに重要なのは451年です。この年、倭王済は「使持節都督」「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」という新たな称号を授けられました。これは、倭だけでなく朝鮮半島南部を含む六国に関する軍事的地位が、中国皇帝によって正式な称号として認められたことを意味します。この称号は478年の武王にも引き継がれ、さらに「安東大将軍」へと昇格しました。
武王は有名な上表文の中で、自らを「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」として認めるよう宋へ求めています。これに対し宋は、倭王による百済の軍事指揮権だけは承認せず、百済を除く六国諸軍事を正式な称号として授けました。つまり、宋は武王の要求をそのまま認めたわけではありません。しかし一方で、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓については、中国皇帝自らが正式な称号として認めたことになります。
当時、百済はすでに宋と独自の外交関係を結び、宋の皇帝から百済王として冊封されていました。宋にとって百済は倭を介して認識される政治勢力ではなく、皇帝と直接関係を結ぶ冊封国でした。そのため、百済を倭王の軍事的管轄に含める称号を承認することは、宋が認めていた百済王の独自の地位と整合しなかったと考えられます。
冊封は、被冊封国の安全を中国が軍事的に保障する制度ではありませんでした。しかし、中国皇帝から独自の国王として承認されていることは、別の冊封国がその国を自らの従属下に置いたと主張することを、中国の外交秩序の中で牽制する効果を持ち得ました。
いずれにせよ、宋が四半世紀以上にわたり倭王に対して同じ六国諸軍事の称号を授け続けたことは、少なくとも中国王朝が、倭王を朝鮮半島南部の軍事・外交秩序において重要な役割を担う存在と認識していたことを示しています。このように、中国皇帝から授けられた称号の変遷をたどると、5世紀のヤマト王権が東アジアの国際政治の中で着実に地位を高めていった様子が浮かび上がってきます。
倭は朝鮮半島を実際に支配していたのか
宋は倭王に対して、百済を除く六国諸軍事を正式な称号として授けました。この事実を見ると、倭が朝鮮半島南部を広く支配していたようにも思えます。実際、倭が朝鮮半島南部に強い影響力を持っていたことを示す史料は少なくありません。
『広開土王碑』には、4世紀末から5世紀初頭に倭軍が海を渡って朝鮮半島へ進出し、新羅方面で高句麗軍と戦ったことが記されています。
『梁職貢図』には、新羅について「或属韓、或属倭(あるいは韓に属し、あるいは倭に属す)」という記述が見え、中国側にも倭が新羅へ影響力を及ぼしていたという認識が存在していたことがうかがえます。
朝鮮半島南西部では十数基の前方後円墳が発見されています。前方後円墳はヤマト王権を象徴する墳墓であり、その存在は倭系勢力や倭と深く結び付いた有力者が半島南部で活動していたことを示す重要な考古学的証拠と考えられています。
百済との関係も極めて密接でした。百済王族が倭へ滞在したり、倭が百済の政治や軍事へ深く関与したりしたことは、日本・中国・朝鮮半島の史料からもうかがうことができます。
以上のように、5世紀の倭が朝鮮半島南部において大きな軍事的・政治的影響力を持っていたことを示す資料は数多く存在します。一方で、その影響力を近代国家のような「領土支配」と同じ意味で理解することにも慎重である必要があります。当時の日本列島や朝鮮半島では、後の近代国家のように国境を策定し、全国を一律に官僚が直接統治する政治体制はまだ成立していませんでした。支配のあり方も、軍事的駐留、同盟関係、王位継承への介入、貢納関係、在地勢力を通じた間接支配など、多様な形を取っていました。
現在では、倭は百済・加耶諸国との強い結び付きのもとで朝鮮半島南部に継続的な軍事介入を行い、一部地域や諸勢力に対して政治的優越や軍事的影響力を及ぼしていたと考える見方が有力です。しかし、その支配は近代国家の植民地支配のような直接統治ではなく、地域や時期によって形態の異なる複雑な政治関係だったと理解されています。
倭の五王が残したもの
『宋書』倭国伝に登場する倭の五王は、ヤマト王権が日本列島の広域政権へと発展していく過程で、大きな役割を果たしたと考えられています。
第一に、彼らは地方豪族を統合し、王権の基盤を強化しました。巨大古墳の築造や各地への勢力拡大は、王権が畿内だけでなく列島各地へ影響力を広げていたことを示しています。武王上表文に見える「東征西討」「毛人五十五国」といった表現は、そのような国内統合の過程を反映している可能性があります。
第二に、東アジア外交を積極的に展開しました。卑弥呼以来約二百年ぶりに中国王朝との本格的な外交を再開した倭の五王は、宋との朝貢外交を通じて国際社会へ参加するとともに、百済や加耶との関係を深め、朝鮮半島情勢にも関与しました。
第三に、国王権力の強化が進みました。中国皇帝から「倭王」「安東将軍」「安東大将軍」といった称号を受けることは、国外での名誉にとどまりませんでした。それは国内においても、「中国皇帝が認めた王」という権威を豪族たちへ示す政治的資源となりました。こうした外交は王権の正統性を支える重要な役割を果たしたと考えられています。
そして最後に、この時代は律令国家への長い道のりの第一歩となりました。5世紀のヤマト王権は、7世紀以降の律令国家とは大きく異なります。全国を官僚が直接支配する中央集権国家ではなく、有力豪族との連合によって成り立つ政権でした。しかし、国内統合を進め、中国王朝との外交を継続し、自らを東アジアの一国家として位置付けようとした姿勢は、その後の飛鳥時代へと受け継がれていきます。
やがて6世紀には継体天皇の時代を迎え、7世紀には推古天皇・聖徳太子のもとで外交制度や政治制度の整備が進められます。そして大化改新を経て律令国家が形成され、日本は天皇を中心とする中央集権国家へと大きく変貌していくことになります。
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