邪馬台国からヤマト王権へ:「空白の時代」に何が起きたのか

卑弥呼の死後からヤマト王権の成立まで、約150年間に及ぶ「空白の時代」を考古学・中国史料・日本神話から読み解きます。前方後円墳の出現、纒向遺跡の変化、朝鮮半島との交流、神功皇后伝承などを手がかりに、邪馬台国からヤマト王権へと続く歴史の転換点をわかりやすく解説します。

はじめに

卑弥呼の時代、日本列島の政治情勢は中国の歴史書によって比較的詳しく知ることができます。『魏志倭人伝』には倭国大乱、卑弥呼の共立、邪馬台国を中心とする諸国の連合、魏への遣使、狗奴国との対立、そして卑弥呼の死と、その後の台与(壹与)の共立までが記されています。

ところが、その後、倭についての記録は急速に少なくなります。3世紀後半から5世紀初頭にかけて、日本列島で何が起きていたのかを詳しく伝える同時代の文献史料は、ほとんど残されていません。このため、この時代はしばしば「空白の4世紀」などと呼ばれます。

しかし、歴史そのものが空白だったわけではありません。むしろ、この時期の日本列島では、それまでの弥生時代とは明らかに異なる巨大な墳墓が出現し、それが各地へと急速に広がっていきます。前方後円墳です。中国史書から倭の姿が見えにくくなったその時期に、日本列島では巨大古墳を築く政治勢力が台頭していました。そして、その中心地の一つと考えられているのが、奈良盆地東南部の大和です。

卑弥呼の邪馬台国と、後のヤマト王権。両者の間には連続性があったのでしょうか。それとも、邪馬台国が衰退・消滅した後に、まったく別の政治勢力が台頭したのでしょうか。この問題を考えるためには、これまでのように中国史書だけを読んでいても答えは出ません。ここからは、古墳、集落、土器、鏡など、地中に残された考古学的資料が歴史を語り始めます。

 

台与の後、倭は中国史書から姿を消す

卑弥呼の死後、邪馬台国では一度、男王が立てられたと『魏志倭人伝』は伝えています。しかし、人々はこれに服さず争乱が起こりました。その結果、千人余りが殺されたとされます。そこで、卑弥呼の宗女である13歳の台与(壹与)が王として立てられました。すると、ようやく国は安定したといいます。台与は魏との外交関係も引き継ぎました。

その後、『晋書』には266年に倭人が西晋へ朝貢したことが記されています。この使節を台与の政権によるものとみる説もありますが、史料そのものには使者を送った王の名は記されていません。そして、この記録を最後に、中国の正史における倭のまとまった記録はしばらく途切れます。

再び倭王が中国史書に明瞭な姿を現すのは5世紀です。『宋書』などには、讃・珍・済・興・武という、いわゆる「倭の五王」が登場します。つまり、中国史書だけを追っていると、卑弥呼・台与の時代から倭の五王の時代へ突然飛んでしまうのです。この間に、日本列島の政治勢力がどのように変化したのかは、中国史書からはほとんど分かりません。しかし、考古学に目を向けると、まさにこの時期に大きな変化が起きていたことが分かります。

 

なぜ「空白」が生じたのか

なぜ中国の史書から倭の記録が減ったのでしょうか。まず注意しなければならないのは、中国史書に記録がないことと倭が中国や朝鮮半島との交流を失ったことは同じではないという点です。中国の歴史書に外国の使節が記録されるためには、その国が中国王朝と外交関係を持つだけでなく、その記録が王朝の公的な文書に残り、さらに後世の歴史書編纂に利用される必要があります。

ところが、3世紀後半の中国では大きな政治変動が続きました。魏は265年に滅び、西晋が成立します。しかし、西晋も長く安定したわけではありません。4世紀初頭には内乱が激化し、北方諸民族の進出も重なって、316年には西晋が滅亡します。中国は長い分裂の時代へと入っていきました。

倭の側にも変化があった可能性があります。卑弥呼が魏との外交を積極的に行った背景には、邪馬台国の政治的な事情がありました。「親魏倭王」という称号や魏から与えられた銅鏡などは卑弥呼の権威を支える政治的資源になった可能性があります。しかし、その後に倭の政治秩序が変化すれば中国王朝との外交の意味も変わったかもしれません。したがって、「空白」は必ずしも倭社会の停滞を意味しません。むしろ、中国側の政治的混乱と倭側の政治秩序の変化が重なった結果、中国史書という窓から倭が見えにくくなったと考えるべきでしょう。そして、その窓が閉じていた時期に、日本列島では別の変化が始まっていました。

 

巨大な前方後円墳の出現

3世紀の日本列島には、それまでとは規模の異なる巨大な墳墓が出現します。前方後円墳です。その象徴的な存在が、奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)です。

図:箸墓古墳
図:箸墓古墳

箸墓古墳は墳丘長約290メートルという巨大な前方後円墳で、築造時期は3世紀中頃から後半と考えられています。突出した規模を持つ出現期の古墳であり、大和政権の成立過程を考えるうえでも重要な遺跡とされています。

これほど巨大な墳墓を築くためには、大量の労働力を長期間にわたって動員し、土木工事を計画し、食料を供給し、人々を組織する必要があります。巨大古墳の出現は、その背後に大きな政治的動員力を持つ権力が存在していたことを示唆します。

しかも、箸墓古墳は孤立して存在しているわけではありません。奈良盆地東南部では、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて纒向に大規模な集落が形成され、周辺にはホケノ山古墳や纒向石塚古墳などの初期古墳が現れ、その後、箸墓古墳をはじめとする200メートルを超える大型前方後円墳が築かれていきます。

つまり、3世紀の大和では、大規模集落の形成から初期古墳の出現を経て、巨大前方後円墳の築造へと至る大きな社会変化が進んでいました。そして、その時期は卑弥呼や台与が生きた時代と重なっています。ここに、「邪馬台国とヤマト王権はつながっていたのではないか」という問題が浮かび上がってきます。

 

前方後円墳はなぜ各地へ広がったのか

さらに注目すべきなのは、前方後円墳が大和だけにとどまらなかったことです。前方後円墳という墳墓の形式は、西日本から東日本にかけて広い範囲へと広がっていきます。もちろん、前方後円墳が存在する地域すべてを、大和の王が直接支配していたと考える必要はありません。むしろ重要なのは、各地の有力者が共通した墳墓の形式を採用したことです。

墓は単なる死者の埋葬場所ではありません。巨大な墳墓は、誰がどれほどの権力を持っていたのかを生きている人々に示す政治的な装置でもありました。各地の首長たちが前方後円墳を築いたということは、彼らが何らかの共通した政治的・祭祀的秩序に参加していた可能性を示します。

それまで各地域に存在していた独自の墳丘墓の伝統が、徐々に前方後円墳を中心とする文化へ変化していく例も確認されています。徳島県の鳴門板野古墳群では、弥生時代以来の地域的な墓制から、古墳時代前期後半になると前方後円墳や円筒埴輪など畿内的要素が強まっていく様子が確認されています。

ここから見えてくるのは、単純な「大和による全国征服」ではありません。大和を中心とする有力勢力と各地の首長たちが、同盟、婚姻、交易、祭祀などを通じて結びつきながら、徐々に広域的な政治秩序を形成していった可能性です。

 

邪馬台国とヤマト王権の関係

この時代を考えるうえで、再び重要になるのが纒向遺跡です。前章で見たように、纒向遺跡は邪馬台国畿内説において有力な候補地の一つとされています。しかし、纒向遺跡の重要性は「邪馬台国だったかどうか」だけにあるわけではありません。むしろ重要なのは、3世紀から4世紀にかけて、この地域が古墳時代の政治秩序形成の中心地の一つとなっていくことです。纒向周辺には初期古墳が築かれ、さらに箸墓古墳という巨大前方後円墳が登場します。

邪馬台国とヤマト王権は、同じ政治勢力の発展段階だったのでしょうか。邪馬台国畿内説に立てば、比較的自然な説明が可能です。卑弥呼の邪馬台国が大和を中心としていたとすれば、3世紀の邪馬台国連合が発展し、前方後円墳を共有する広域的な政治連合へ変化し、やがてヤマト王権になったという歴史像を描くことができます。しかし、これはあくまで一つの仮説です。纒向遺跡が邪馬台国の中心地であったこと自体が確定していない以上、纒向遺跡の発展をそのまま「邪馬台国がヤマト王権になった証拠」とすることはできません。

一方、邪馬台国九州説に立てば、話は変わります。邪馬台国が北部九州に存在したのであれば、3世紀から4世紀にかけて政治的中心が九州から大和へ移動したのか、あるいは邪馬台国とは別に大和の勢力が成長し、最終的に列島の政治的主導権を握ったのかを説明する必要があります。

つまり、邪馬台国はどこにあったのかという問題と、ヤマト王権はどのように成立したのかという問題は、実は密接につながっています。ただし、邪馬台国とヤマト王権の間には文献史料の空白があります。だからこそ、この時代は日本古代史における最大級の謎の一つなのです。

 

4世紀の朝鮮半島と倭

3世紀後半から4世紀にかけて、日本列島では前方後円墳が急速に広がり、ヤマト王権による広域的な政治秩序が形成されつつありました。この時代の東アジアでは、中国が統一帝国として安定していたわけではありません。西晋は4世紀初頭に崩壊し、中国北部では複数の王朝や政治勢力が興亡を繰り返しました。朝鮮半島では中国の力が及ばなくなると、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)という三つの王国が勢力を伸ばします。この国際情勢の中に倭も深く関わるようになります。

図:4世紀の東アジア情勢
図:4世紀の東アジア情勢

半島北部では高句麗が勢力を拡大し、西暦313年には中国の楽浪郡を、翌314年には帯方郡を滅ぼしました。これによって、漢代以来約400年続いてきた中国王朝の直接支配は終わりを迎えます。一方、半島南部では百済と新羅が周辺の小国を統合しながら国家として成長していきました。さらに、南部には多数の小国からなる加耶諸国が存在していました。加耶は豊富な鉄資源を産出し、鉄器の製造や交易で栄えた地域でした。

高句麗は北方最大の軍事国家として急速に勢力を拡大し、百済に大きな圧力をかけていました。百済にとって、高句麗へ単独で対抗することは容易ではありません。そのため、海を隔てた倭との関係を強め、軍事的な協力を求めたと考えられています。一方、倭にとっても百済との同盟には大きな利益がありました。百済との交流を通じて大陸の文化や技術、外交情報を得られるからです。また、日本列島では鉄鉱石の産出が限られていたことから鉄資源の産地である加耶諸国を通じて鉄素材を入手していたため、交易路を確保する必要もありました。これに対し、新羅は勢力を拡大して加耶へ影響力を及ぼそうとしていました。もし新羅が加耶を支配すれば、倭は鉄資源や海上交通の重要な拠点を失うことになります。そのため、高句麗・新羅と、百済・加耶・倭という対立構造が形成されるようになります。

 

七支刀が語る百済と倭王の関係

こうした国際情勢の中で、倭と百済の関係を示す重要な史料が七支刀(しちしとう)です。

図:七支刀
図:七支刀

奈良県の石上神宮に伝わるこの鉄剣には金象嵌の銘文が刻まれており、一般には369年に百済王が倭王へ贈った刀と考えられています。全長は約75センチメートルで、刀身の両面には金象嵌による文字が刻まれています。現存する原品は国宝に指定されており、実用武器というよりも、儀礼的・象徴的な品として製作されたと考えられています。

七支刀の銘文は、錆や摩耗によって判読が難しく、すべての文字について研究者の意見が一致しているわけではありません。比較的よく知られている読み方では、表面に「泰和四年(369年)五月十六日、丙午の日の正陽(太陽が真南にある時刻)に、百回鍛え上げた鉄で七支刀を造った」といった文章が刻まれているとされます。裏面には「百済王または百済王世子が倭王のためにこの刀を作らせた」という趣旨の文章があると解釈されています。「泰和四年」を東晋の太和四年に当てれば西暦369年となります。このため、七支刀を4世紀後半の百済と倭の関係を示す史料とみる理解が広く知られています。

七支刀の形状や銘文から、これは王から王へ贈られた外交的・儀礼的な品だったと考えられます。百済の王権が特別な刀を製作し「倭王」と呼ばれる人物へ渡したとすれば、4世紀の倭に、百済が正式な外交相手と認めるほどの王が存在したことになります。卑弥呼の時代には、中国の魏が「親魏倭王」という称号を与えました。七支刀の時代には、朝鮮半島の百済が「倭王」と外交関係を結んでいます。つまり、倭王の政治的地位は、列島内部だけではなく、海の向こうの国々との外交を通じても形づくられていたのです。

『日本書紀』には、百済から「七枝刀」と七子鏡などがもたらされたという記事があります。これが現存する七支刀を指すのではないかと考えられてきました。もし両者が同じ品であれば、『日本書紀』の伝承と実物の金石文が対応する貴重な事例になります。しかし、『日本書紀』は8世紀に編纂された史料であり、七支刀の製作時期から数百年の隔たりがあります。

 

広開土王碑が語る倭の軍事活動

七支刀が百済と倭の外交関係を伝えるのに対し、広開土王碑は、朝鮮半島の戦争に現れる倭の姿を伝えます。広開土王碑は、高句麗の王・広開土王の功績をたたえるため、その子の長寿王によって414年に建てられました。

図:広開土王碑
図:広開土王碑

原碑は現在の中国吉林省集安市にあります。高さは約6メートルに及ぶ巨大な石碑で、四面に広開土王の事績が刻まれています。広開土王は391年から412年まで在位し、高句麗の領域を大きく広げました。

碑文には、倭が海を渡って百済・新羅に侵攻したと読める記述があります。さらに、高句麗軍が百済・新羅方面へ出兵し、倭軍と戦ったことも記されています。ただし、この碑文は高句麗側が自国の勝利を記念して建てた戦勝碑であり、その記述には政治的な誇張が含まれている可能性があります。そのため、碑文をそのまま事実として受け取るのではなく、他の史料や考古学的成果と照らし合わせながら読み解く必要があります。しかし、少なくとも、4世紀後半に倭が朝鮮半島で軍事活動を行っていたこと自体は、多くの研究者が認めています。

4世紀末になると、高句麗では広開土王が即位し、大規模な対外遠征を開始します。396年には百済へ侵攻して王都を攻略し、百済王を降伏させました。さらに、新羅にも出兵し、倭軍との戦闘があったことが広開土王碑に記されています。こうして高句麗は朝鮮半島北部から中部にかけて圧倒的な軍事的優位を確立しました。一方、倭は朝鮮半島での活動を徐々に縮小していきます。その後も百済との外交関係は続きますが、4世紀後半のような軍事的主導権を握ることは難しくなりました。

 

『古事記』『日本書紀』をどこまで利用できるのか

日本には『古事記』や『日本書紀』があります。そこには、神武天皇から始まる歴代天皇の系譜が記されています。とりわけ『日本書紀』では、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇といった人物が、この時代に対応するかのように配置されています。それならば、『日本書紀』を読めば4世紀の歴史が分かるのではないでしょうか。

問題は、それほど単純ではありません。『古事記』が成立したのは712年、『日本書紀』は720年です。4世紀の出来事から数百年後に編纂された史料です。そこには古い伝承や系譜が含まれている可能性がありますが、同時に、8世紀の律令国家が自らの起源を説明するために整理・構成した歴史でもあります。したがって、『古事記』『日本書紀』の記事をそのまま3〜4世紀の同時代記録として扱うことはできません。

  1. 神功皇后の新羅遠征
    『古事記』『日本書紀』で最も有名なのが、神功皇后(じんぐうこうごう)による朝鮮半島遠征です。神功皇后は夫・仲哀天皇の死後、自ら軍を率いて海を渡り、新羅を服属させ、さらに百済・高句麗も朝貢するようになったと記されています。この物語では、新羅が服属する、百済が朝貢する、半島諸国が倭へ従うという壮大な成功物語として描かれています。しかし、この遠征を裏付ける同時代史料は存在せず、多くの研究者は物語としての要素が強いと考えています。日本書紀では神功皇后の朝鮮遠征が大勝利として描かれている一方で、広開土王碑では、高句麗が百済や新羅を救い、倭軍を撃退したことが強調されています。
  2. 応神天皇と百済
    一方で、『日本書紀』には百済との交流を伝える記事も数多く登場します。百済から王族や学者、技術者が渡来したこと、馬・鉄器・漢字・儒学などの文化がもたらされたことが記されています。4~5世紀に百済との交流が非常に活発だったという大きな流れは、考古学や中国史料ともおおむね一致しています。
  3. ヤマトタケルと東国平定
    『古事記』『日本書紀』には、ヤマトタケルが西日本や東日本各地を平定したという英雄譚も描かれています。もちろん、ヤマトタケルという一人の人物が実際に全国を征服したと考える研究者はほとんどいません。しかし、この伝承は、ヤマト王権が数世代にわたり各地へ勢力を広げていった歴史を、一人の英雄の物語としてまとめたものではないかと考えられています。
図:神功皇后と武内宿禰
図:神功皇后と武内宿禰

 

おわりに―「空白」の中で生まれたヤマト王権

3世紀後半、中国史書から倭の姿は次第に見えなくなりますが、その間に大きな変化が起きていました。奈良盆地東南部に大規模な政治的中心が形成され、巨大な前方後円墳が出現しました。そして前方後円墳という共通した墳墓形式は、各地の地域社会へと広がっていきました。それは、各地の首長たちが、それまで以上に広域的な政治秩序へ組み込まれていく過程であった可能性があります。そして、その中心に大和の政治勢力が浮かび上がってきます。この勢力が、後に私たちがヤマト王権と呼ぶ政治勢力へ発展していったと考えられます。

しかし、最大の謎は残ります。卑弥呼が率いた邪馬台国と、巨大な前方後円墳を築いたヤマト王権は、どのような関係にあったのか。両者は連続していたのか。それとも、「空白の時代」のどこかで政治的な断絶が起きたのか。現時点では、その答えを確定することはできません。

5世紀になると、中国史書の中に倭の王たちが再び姿を現します。讃・珍・済・興・武、すなわち「倭の五王」です。中国史書の「空白」が終わったとき、そこに現れた倭は卑弥呼の時代とは異なる姿を見せていました。次に問うべきなのは、この倭王たちは誰だったのか。そして彼らは、成長しつつあったヤマト王権をどのように東アジア世界の中に位置づけようとしたのかという問題です。

 

演習問題

問題(空白の時代)
卑弥呼の死後からヤマト王権成立までの約150年間が「空白の時代」と呼ばれる理由を説明し、この時代を復元するために利用される史料を二つ以上挙げながら述べてください。(150字以内)
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問題(倭の朝鮮半島への関与)
4世紀後半における倭の朝鮮半島への関与について、百済・加耶・高句麗との関係に触れながら説明してください。(200字以内)
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問題(広開土王碑と日本書紀)
広開土王碑と『日本書紀』は、4世紀後半の倭の朝鮮半島での活動をそれぞれどのように描いているか。また、歴史学では両史料をどのように扱うべきか説明してください。(250字以内)
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問題(邪馬台国からヤマト王権への移行)
邪馬台国からヤマト王権への移行について、考古学的成果と文献史料の双方を用いて説明してください。(300字以内)
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問題(ヤマト王権の成立)
中国史書・朝鮮半島の史料・日本の史料は、それぞれ4~5世紀の倭を異なる立場から描いている。これらの史料の特徴と限界を踏まえ、歴史学がヤマト王権成立史をどのように復元しているか論じてください。(400字以内)
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