中世ヨーロッパに封建社会が形成された経緯
ローマ帝国の時代には各地が属州と呼ばれる行政単位に分割され、中央政府から派遣された総督によって統治されていました。法制度は帝国内で統一されており、属州に住む人たちもローマ法のもとで生活しました。また、ローマ軍は皇帝が直接指揮する形で運営され、属州に覇権された軍隊は中央政府に依存していました。ただ、476年にゲルマン人などの侵攻により西ローマ帝国が崩壊すると、各地においてローマ官僚やローマ法、ローマ軍による中央集権的な支配体制が失われ、治安が急速に悪化します。
外敵の侵入や内乱から自身の身を守るために、農民は地方の有力者(貴族や修道院など)に土地を寄進し、自身がその土地で働きながら保護を受ける契約を結ぶようになります。土地を寄進した農民は、その土地の耕作権を与えられる一方で、有力者に対して賦役(労働義務)や収穫物の一部を収める義務を負いました。このようにして、自由民であった農民は次第に農奴として領主に隷属するようになります。後述するように、中世ヨーロッパの封建社会の特徴の1つは、このような流れから形成された農奴制と荘園制を経済的基盤とする社会体制にあります。
農民から土地を寄進された有力者は、さらに自らの保護を求めてより強大な有力者に土地を寄進するようになります。寄進された土地は封土(fief)として形式的には主君の所有物となりますが、臣下がその土地を支配・運営し続けることが認められました。主君は臣下に対して封土を与えるとともに軍事的ないし法的な保護を提供する一方で、臣下は主君に忠誠を誓い軍事奉公を行うという双務的な主従契約が両者の間に結ばれるようになります。後述するように、中世ヨーロッパの封建社会のもう1つの特徴は、このような流れから形成された私的な主従関係にもとづく地方分権的な社会構造にあります。

農奴制と荘園制を経済的基盤とする社会体制
一般論として、国有地や公有地など国家や公共団体が所有する土地との対比で、私的に所有される土地のことを荘園(manor)と呼びます。ただし、中世ヨーロッパにおける荘園とは、領主が私的に所有する土地を指すだけではなく、領主を中心とした農村経済と社会の基本単位を指します。中世ヨーロッパにおいて荘園制が発展した背景と、荘園制の特徴は以下の通りです。
ローマ帝国時代にはローマと属州を結びつける交通網や貨幣経済が発達するとともに、中央集権的な行政機構や軍事機構が治安を維持していたため、商業や工業など都市を中心とする経済が発展しました。しかし、ローマ帝国崩壊後の西ヨーロッパにはゲルマン族やフン族、ヴァイキングなどの異民族が侵入したことにより都市の治安が悪化したため、人々は安全を求めて農村に移り住むようになります。その結果、都市型の経済活動が停滞し、西ヨーロッパ世界は自給自足の農業社会へ後退します。中世ヨーロッパにおける荘園は、外部の経済に依存せず、領地内で食料や衣料、日用品をまかなう自給自足的な経済単位でした。
農民たちは外敵の侵入や内乱から自身の身を守るために、自身の土地を領主に保護を求める対価として自身の土地を寄進しました。土地を寄進した農民は土地の耕作権を与えられる一方で、領主に対して賦役(労働義務)や貢納(収穫物の一部)を中心とする税を収める義務を負いました。自由民であった農民は次第に農奴として領主に隷属するようになります。農奴は家族・住居・農具の所有権を認められていましたが、居住移転や職業選択の自由は認められていませんでした。つまり、農奴は土地と一体化した存在であり、領主によって所有される財産とみなされていました。中世ヨーロッパにおける荘園制は領主と農民の間の主従関係にもとづく社会単位でした。

私的な主従関係にもとづく地方分権的な社会構造
古代ローマの支配関係は中央集権的であり、皇帝が絶対的な権力を持っていました。地方の統治を担当する総督は中央から派遣された地方官であり、皇帝の代理として行政や軍事を担当しました。ローマ帝国内ではローマ法が運用されており、統一的なルールのもとで統治が行われていました。一方、中世ヨーロッパは分権的な社会構造のもとで統治が行われています。
中世ヨーロッパにおいて、農民から土地を寄進された領主は、さらに自らの保護を求めてより強大な領主へ土地を寄進するようになります。主君は臣下に対して封土を与えるとともに軍事的ないし法的な保護を提供する一方で、臣下は軍事奉公を行うという双務的な契約が両者の間で結ばれるようになります。
各地に大小の封建領主が群雄割拠し互いに争うようになると、封建領主たちは彼らの中で最も勢力の強い者を国王(rex)として擁立し、領主間の争いの調停役を担わせました。ただし、中世ヨーロッパの国王は自身もまた一人の封建領主にすぎず、他の領主たちを武力で支配していたわけではありません。国王の臣下である領主たちは自身の領地や農奴に対する支配権を持っており、国王といえども臣下の領地内のことには口出しできませんでした。
中世ヨーロッパ世界にはローマ法のような統一的なルールは存在しないため、各地において過去から続いてきた伝統や慣習、すなわち慣習法(common law)が重視されました。たとえ国王であっても慣習法を破ることはできず、好き勝手に法律を作ったり、臣下に対して無断で課税することはできませんでした。
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