中世ヨーロッパには国家が存在しなかった
現在、世界は196の国家(state)から構成されています。それぞれの国家は国境によって明確に区切られた領域(territory)を持ち、領域の内部には言語・文化・民族に関してある程度の共通性を持つ国民(people)が住んでいるとともに、他の勢力から干渉されずに領域内を統治する排他的な支配権、すなわち主権(sovereignty)を持つ組織が存在します。ただし、領域・国民・主権から構成される近代国家が登場したのは比較的最近のことです。中世ヨーロッパにおいて王国(realm)は存在しましたが、それは近代国家とは異なるものでした。中世ヨーロッパの実態は以下の通りです。
中世ヨーロッパの国王は臣下との契約に縛られていた
古代ローマ帝国が崩壊して以降、中世ヨーロッパには土地と武力を持つ封建領主(feudal lord)と呼ばれる大小の権力者たちが群雄割拠し、互いに争う不安定な情勢が続いていました。そこで、封建領主たちは彼らの中で最も勢力の強い者を国王(rex)として擁立し、領主間の争いの調停役を担わせました。
中世ヨーロッパの国王は自身もまた一人の封建領主にすぎず、他の領主たちを武力で支配していたわけではありません。国王の臣下である領主たちは自身の領地や農奴に対する支配権を持っており、国王といえども臣下の領地内のことには口出しできませんでした。国王の力が及ぶ範囲は自身の領地、すなわち直轄領とそこに住む農奴に対してのみです。このようなこともあり、当時の国王は同輩中の首席(primus inter pares)と呼ばれます。
国王と領主の主従関係は人間関係にもとづくものではなく、契約関係にもとづいていました。その契約の内容とは、「国王は臣下である領主の土地を保護する対価として、臣下である領主は戦時において国王側で参戦する」というものです。
国王と領主にとって重要なことは人間関係を深めることではなく、交わした契約をきちんと守ることです。国王もまた一人の封建領主にすぎないため、臣下である領主が契約を一方的に守るのではなく、国王もまた契約を守る義務があります。国王が契約以上のことを臣下に対して要求したら、臣下は契約を打ち切ることができました。
人間関係よりも契約関係を重視する関係性はドライに見えますが、実際にはそうであるとは限りません。平時には人格者のように振る舞っていた君主や、忠臣のように振る舞っていた臣下が、有事になると簡単に相手を裏切るという事態は起こり得ます。一方、主従関係が契約にもとづいている状況において「有事の際に相手の命を守ること」が契約に盛り込まれていれば、彼らは自身の命を賭してでも契約を遂行しようとします。契約がすべての社会において「契約を守らない者」と烙印を押されることは社会的な死を意味するからです。
近代国家の3要素である領域・国民・主権が中世ヨーロッパに存在し得なかった理由の一つは、国王と領主の間のこのような関係性にあります。中世ヨーロッパの国王と領主にとって重要なことは契約を守ることであり、逆に、契約さえ守っていれば、一人の領主が複数の国王に使えることは不道徳とはみなされませんでした。
実際、地理的に複数の王国にまたがる領地を持つ領主にとって、複数の国王と主従契約を結ぶことは現実的な選択です。したがって、ある領主がA国の国王から土地を与えられると同時に、B国の国王からも土地を与えられる状況は起こり得ます。契約上、この領主は両国の国王の臣下ですが、国王の直轄領以外に住む農奴は領主の持ち物であり、国王は臣下である領主の領地内のことに口出しできません。
以上の状況において、両国の土地と国民を明確に区別することは困難であり、また、両国の国王が領域内において主権を持っているものと判定することも困難です。

中世ヨーロッパの国王は伝統主義に縛られていた
今日において私たちが「伝統は大切だ」と言う場合、その真意は「良い伝統」は引き継ぐべきであるという点にあり、「悪い伝統」まで引き継ぐべきではないと考えています。一方、中世ヨーロッパでは「良い伝統」と「悪い伝統」は区別されず、伝統はすべて絶対的なものとみなされていました。つまり、過去において行われてきたことは、ただそれが過去にあったという理由だけで全肯定され、それが今後における行動の基準になるということです。このような考え方を伝統主義(traditionalism)と呼びます。マックス・ウェーバーは伝統主義を永遠の昨日(the eternal yesterday)と呼びます。なぜなら、伝統主義のもとでは、過去に行われてきたことは将来において永遠に繰り返されるからです。
伝統主義に支配されていた中世ヨーロッパにおける法とは、今日の意味における法律ではなく、過去から続いてきた伝統や慣習、すなわち慣習法(common law)を指します。今日において、私たちは合理的判断にもとづいて法律を変えますが、中世ヨーロッパでは過去からの伝統や慣習だけが法であるため、人間が合理的判断にもとづいて法を変えることは許されませんでした。たとえ国王であっても慣習法を破ることはできず、好き勝手に法律を作ったり、無断で課税することはできませんでした。以上の状況において、国王が領域内において主権を持っているものと判定することは困難です。

中世ヨーロッパの国王は教会の権力に逆らえなかった
西ヨーロッパでは異民族の侵入などにより西ローマ帝国が崩壊し、社会の混乱が続きました。そのような中、教会は人々に救済を提供することでキリスト教を中心とした社会的結束の基盤としての地位を徐々に確立していきました。熱心な信者たちは修道院で集団生活を行うことにより信仰を強化し、教育と文化の維持・発展に貢献するとともに、異民族への布教を進めました。西ヨーロッパではフランク王国が教会の支持者となり、教会の権威がゲルマン世界に浸透します。東ヨーロッパにおいてキリスト教は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に保護され、東方への布教が進められました。
西ヨーロッパではもともと、農民たちは教会を維持するために生産物の一部を自発的に寄付していましたが、次第にこれが租税として整備され、農民は生産物の10分の1を税として教会に収めるようになります(十分の一税)。また、教会は貴族や国王から多くの土地を寄進され、中世ヨーロッパ最大の土地所有者となりました。このようにして教会は莫大な富を蓄え、封建領主としての地位を確立していきます。
中世ヨーロッパの国王は、宗教的権威と経済的影響力を持つ教会との協調を余儀なくされ、教会と対立することは自らの地位を危うくする行為でした。以上の状況において、国王が領域内において主権を持っているものと判定することは困難です。

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