ドレフェス事件
ドレフェス事件(Dreyfus affair)は1894年にフランスで発生した冤罪事件です。1894年、フランス陸軍は自国の機密情報が記された手紙を入手します。手紙はプロイセン宛てであったため、フランス陸軍の内部にスパイがいるものと考えられました。調査の結果、フランス陸軍の大尉であったアルフレッド・ドレフェス(Alfred Drefus)の筆跡が手紙の筆跡と似ていたことから、それが決定的証拠となり、彼は逮捕されて終身刑を言い渡されます。後に真犯人が発覚したにも関わらず、ドレフェスは有罪とされたままでした。最終的には冤罪であることが判明し、1906年に彼は無罪判決を受けました。
1870年に起きた普仏戦争においてフランスはプロイセンに敗北しました。戦後、プロイセンを中心としたドイツ帝国が誕生します。戦後処理の一貫としてフランスはアルザス=ロレーヌ地方をドイツに割譲することになります。この敗戦の屈辱から、フランスではドイツへの復讐を主張する勢力が伸長しました。同時に、フランスではユダヤ人に対する偏見が強く、ユダヤ人は「国家に忠誠を誓わない者」とみなされていました。このような時代背景の中で、ドイツに奪われたアルザス出身であり、なおかつユダヤ人であったドレフェスがドイツのスパイとしてフランスを裏切ったのだという世論が形成され、ドレフェスは有罪へと追い込まれました。
検察官の誤謬
ドレフェス事件では、ドレフェスの筆跡が犯人の筆跡と似ていたことが決定的な証拠となり、彼は逮捕されました。しかし、確率論にもとづいて考えると、このような証拠をもとに有罪とすることは早計であることが明らかになります。
以下の2つの事象\begin{eqnarray*}
A &:&\text{被疑者が実際の犯人である} \\
B &:&\text{被疑者の筆跡が犯人の筆跡と似ている}
\end{eqnarray*}に注目します。その上で、以下の2つの条件付き確率\begin{eqnarray*}
P\left( B|A\right) &:&\text{犯人の筆跡が自身の筆跡と似ている確率} \\
P\left( A|B\right) &:&\text{犯人と筆跡が似ている被疑者が犯人である確率}
\end{eqnarray*}に注目します。
犯人の筆跡が自身の筆跡と似ていることは自明であるため、\begin{equation*}
P\left( B|A\right) =1
\end{equation*}が成り立ちます。では、ドレフェス事件の検察のように、犯人と筆跡が似ていることを根拠にその人が犯人であると決めつけることはできるのでしょうか。つまり、\begin{equation*}
P\left( A|B\right) =1
\end{equation*}すなわち、\begin{equation*}
P\left( B|A\right) =P\left( A|B\right)
\end{equation*}が成り立つことを仮定できるのでしょうか。
このような仮定は成り立つとは限りません。なぜなら、犯人以外にも犯人と筆跡が似ている人はいるため、筆跡が似ている人が犯人である確率\(P\left( A|B\right) \)は想定より低くなる可能性があるからです。これを検察官の誤謬(Prosecutor’s fallacy)と呼びます。ベイズの定理を用いて考えると誤謬たる理由がより明確になります。
先の2つの事象\(A,B\)について、\begin{eqnarray*}P\left( A|B\right) &=&\frac{P\left( B|A\right) \cdot P\left( A\right) }{P\left( B\right) }\quad \because \text{ベイズの定理} \\
&=&\frac{P\left( B|A\right) \cdot P\left( A\right) }{P\left( B|A\right)
\cdot P\left( A\right) +P\left( B|A^{c}\right) \cdot P\left( A^{c}\right) }\quad \because \text{全確率の定理}
\end{eqnarray*}すなわち、\begin{equation}
P\left( A|B\right) =\frac{P\left( B|A\right) \cdot P\left( A\right) }{P\left( B|A\right) \cdot P\left( A\right) +P\left( B|A^{c}\right) \cdot
P\left( A^{c}\right) } \quad \cdots (1)
\end{equation}が成り立ちます。
\(n\)人の捜査対象がおり、各々が等しい確率で犯人であるものとします。つまり、\begin{equation}P\left( A\right) =\frac{1}{n} \quad \cdots (2)
\end{equation}が成り立つということです。このとき、\begin{eqnarray*}
P\left( A^{c}\right) &=&1-P\left( A\right) \\
&=&1-\frac{1}{n} \\
&=&\frac{n-1}{n}
\end{eqnarray*}すなわち、\begin{equation}
P\left( A^{c}\right) =\frac{n-1}{n} \quad \cdots (3)
\end{equation}もまた成り立ちます。犯人の筆跡は自身の筆跡と似ているものとします。つまり、\begin{equation}
P\left( B|A\right) =1 \quad \cdots (4)
\end{equation}が成り立つということです。加えて、ある人の筆跡が犯人の筆跡と一致する確率が\(p\in \left[ 0,1\right] \)であるものとします。この場合には、\begin{equation}P\left( B|A^{c}\right) =p \quad \cdots (5)
\end{equation}が成り立ちます。以上を踏まえると、\begin{eqnarray*}
P\left( A|B\right) &=&\frac{P\left( B|A\right) \cdot P\left( A\right) }{P\left( B|A\right) \cdot P\left( A\right) +P\left( B|A^{c}\right) \cdot
P\left( A^{c}\right) }\quad \because \left( 1\right) \\
&=&\frac{1\cdot \frac{1}{n}}{1\cdot \frac{1}{n}+p\cdot \frac{n-1}{n}}\quad
\because \left( 2\right) ,\left( 3\right) ,\left( 4\right) ,\left( 5\right)
\\
&=&\frac{1}{1+p\left( n-1\right) }
\end{eqnarray*}を得ます。以上より、\begin{equation*}
P\left( A|B\right) =\frac{1}{1+p\left( n-1\right) }<1=P\left( B|A\right)
\end{equation*}が成り立つことが明らかになりました。\(P\left( A|B\right) \)すなわち\(\frac{1}{1+p\left(n-1\right) }\)は\(p\)および\(n\)に関する減少関数であるため、\(p\)や\(n\)が増えるほど\(P\left( A|B\right) \)は低く評価されます。特に、\(n\in \mathbb{N} \)かつ\(p\in \left[ 0,1\right] \)であるため、\(p\)の水準は\(P\left( A|B\right) \)に大きな影響を与えます。つまり、犯人の筆跡がありふれている場合、犯人と筆跡が似ている人が犯人である確率が著しく低くなります。
数値例を挙げると、ある人の筆跡が犯人の筆跡と似ている確率が\(p=\frac{1}{1000}\)である状況において\(n=1000\)人を捜査対象とした場合、犯人と筆跡が似ている人が犯人である確率は、\begin{eqnarray*}P\left( A|B\right) &=&\frac{1}{1+p\left( n-1\right) } \\
&=&\frac{1}{1+\frac{999}{1000}} \\
&\approx &0.500
\end{eqnarray*}となります。また、ある人の筆跡が犯人の筆跡と一致する確率が\(p=\frac{1}{500}\)である状況において\(n=1000\)人を捜査対象とした場合、犯人と筆跡が似ている人が犯人である確率は、\begin{eqnarray*}P\left( A|B\right) &=&\frac{1}{1+p\left( n-1\right) } \\
&=&\frac{1}{1+\frac{999}{500}} \\
&\approx &0.336
\end{eqnarray*}となります。
検察の誤謬の別の解釈
検察官の誤謬を別の形で解釈することもできます。まずは以下の命題を示します。
=P\left( B|A\right)
\end{equation*}が成り立つ。
ドレフェス事件における検察の主張は以下の仮定\begin{equation*}
P\left( A|B\right) =P\left( B|A\right)
\end{equation*}に依拠していますが、先の命題より、以上の事実は、検察の主張が以下の仮定\begin{equation*}
P\left( A\right) =P\left( B\right)
\end{equation*}に依拠していることと必要十分であることが明らかになりました。つまり、検察は、被疑者が実際の犯人であることと、被疑者の筆跡が犯人の筆跡と似ていることを混同しています。
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