
ヒシクイとオオヒシクイ
ヒシクイとオオヒシクイは、いずれもカモ科に属する大型のガンの仲間です。日本には冬鳥として渡来し、湖沼や湿地、農耕地などで越冬します。名前が似ていることからもわかるように両者は非常に近縁で、オオヒシクイはヒシクイより一回り大きな体をしています。
ところが、繁殖地を見ると少し不思議な関係が見えてきます。
より北方の寒冷な地域で繁殖するのはヒシクイですが、体が大きいのはオオヒシクイです。寒い地域の動物ほど大型になる傾向があるという「ベルクマンの法則」から考えると、むしろ逆になっているように見えます。
なぜ、より寒い地域で繁殖するヒシクイの方が小さいのでしょうか。
この疑問を考えていくと、ベルクマンの法則がどのような意味で成り立つのか、そして生物の体サイズが一つの要因だけでは決まらないことが見えてきます。
ベルクマンの法則とは
ベルクマンの法則とは、近縁な恒温動物では、寒冷な地域に生息するものほど体サイズが大きくなる傾向があるという経験則です。
体が大きくなると、体積に対する表面積の割合が小さくなります。そのため、体内で生み出した熱が外へ逃げにくくなり、寒冷な環境では大型の体が有利になると考えられています。
もっとも、ベルクマンの法則は「寒い場所では必ず体が大きくなる」という絶対的な法則ではありません。あくまで、多くの動物に認められる一般的な傾向です。
ヒシクイとオオヒシクイの関係は、そのことを考えるうえで興味深い例です。
北方で繁殖するヒシクイの方が小さい
ヒシクイはより北方のツンドラ地帯で繁殖するのに対し、オオヒシクイはそれより南側のタイガ地帯を主な繁殖地としています。
ところが、体サイズはオオヒシクイの方が大きく、ヒシクイの方が小型です。
繁殖地の気候だけに注目すれば、より寒冷な地域で暮らすヒシクイの方が大型になってもよさそうです。しかし実際には、その逆の関係が見られます。
この点で、ヒシクイとオオヒシクイは、ベルクマンの法則から単純に予想される傾向には当てはまりません。
長距離の渡りが体サイズを制約する可能性
この逆転を説明する要因の一つとして考えられるのが、渡りの距離です。
ヒシクイはオオヒシクイより北方で繁殖するため、日本などの越冬地との間を移動する距離も長くなる傾向があります。渡りの距離が長くなれば、それだけ飛行に必要なエネルギーも増加します。
鳥が大型になると、その体を空中に持ち上げ、長距離にわたって運ぶために必要な絶対的なエネルギー量も大きくなります。そのため、長距離渡りを行う鳥では、過度に大型化することが移動上の負担になる可能性があります。
もちろん、大型の鳥には多くの脂肪を蓄えられるといった利点もあります。そのため、「小型であるほど長距離渡りに適している」と単純に言うことはできません。
それでも、数千キロメートルに及ぶ渡りを繰り返す場合、体サイズが飛行コストに関係することは重要です。
寒冷適応と渡りのあいだのトレードオフ
この観点から考えると、ヒシクイには相反する二つの選択圧が作用している可能性があります。
一方では、寒冷な北方環境で体温を維持するためには、大きな体が有利です。これはベルクマンの法則が想定する方向です。
しかし他方では、繁殖地が北になるほど越冬地までの渡り距離が長くなります。長距離を飛ぶ必要があるなら、大型の体を維持することには移動上のコストが生じます。
したがって、北方で生活することが必ずしも一方的に大型化を促すとは限りません。寒冷環境では大型化が有利であっても、長距離渡りという別の条件が、それとは逆方向に働く可能性があります。
ヒシクイがオオヒシクイより小さいことは、こうした異なる選択圧のバランスによって説明できるかもしれません。
渡りだけで説明できるわけではない
もっとも、「ヒシクイが小型なのは長距離渡りへの適応である」と断定するのは慎重であるべきです。
ヒシクイとオオヒシクイでは、繁殖地の緯度だけでなく、生息環境や採食様式にも違いがあります。オオヒシクイは湖沼や湿地への依存度が高く、水辺での採食に適した形態をもっています。
したがって、両亜種の体サイズの違いには、渡り距離だけでなく、食物資源や採食環境など複数の生態的要因が関係している可能性があります。
体サイズは、一つの環境条件に対する適応だけで決まるものではありません。
「反例」から見えてくること
ヒシクイとオオヒシクイの例から重要なのは、単に「ベルクマンの法則には例外がある」と結論づけることではありません。
生物には常に複数の条件が同時に作用しています。寒さへの適応という観点では大型化が有利でも、長距離移動という観点では、その大型化が負担になることがあります。さらに、生息環境や採食様式も体サイズに影響します。
ベルクマンの法則は、そうした多くの要因の中で、気温と体サイズとの間に認められる一般的な傾向を示したものと考えるべきでしょう。
この意味で、ヒシクイとオオヒシクイは単なる「ベルクマンの法則の例外」ではありません。
むしろ、生物の形質が一つの適応原理だけで決まるのではなく、複数の選択圧のバランスによって形成されることを示す、興味深い例だといえます。
