ソクラテスが生きた当時のアテナイの状況
ソクラテスは紀元前 469 年にギリシアのアテナイに生まれた実在の人物です。アテナイは民主主義が初めて成立した都市として知られており、当時はギリシア都市国家(ポリス)群の盟主として繁栄していました。
ソクラテスはアテナイの街頭や公園などで人間の生き方について人々と問答を交わすなど非常に目立つ存在であり、その不思議な魅力から彼の周りには多くの人が集まりサークルを形成していたと言われています。「ソクラテスの弁明」の著者であるプラトンもそのサークルに属していた一人です。
アテナイを盟主に繁栄していたギリシア世界ですが、次第にアテナイを中心とする民主制諸国とスパルタを中心とする反民主制諸国に分裂・対立するようになり、紀元前431年には両陣営の間でペロポネソス戦争が始まります。紀元前 404 年にアテナイの降伏によってこの戦争が終結するとアテナイの国内では反民主派が力を握り、彼らはスパルタの勢力と結んで独裁権力である「30 人政権」を樹立します。翌年には民主派の武力攻撃によって 30 人政権が崩壊しアテナイに民主制が復活しますが、政情不安の中で人々はまだ疑心暗鬼を抱きながらお互いを見ているような状況でした。
ソクラテスが告発された経緯
このような不安定期のアテナイにおいて、ソクラテスは政界の実力者アニュトスと弁論家リュコンを後ろ盾とするメレトスという青年に告発され、被告として裁判に出廷します。告発の理由は、「国家の認める神々を認めず、別の新奇なダイモーンの祀りを導入するという罪を犯し、かつまた、青年たちに有害な影響を与えている」というものであり、死刑を求刑されました。
しかし、これはあくまでも名目的な理由であり、実際にはアニュトスがソクラテスを 30 人政権の有力者とつながりを持つ危険人物と考え(ソクラテスはこれを否定しますが)、彼を追放するためにメレトスという若者を告訴人に仕立て上げて裁判を開かせたのだと言われています。
当時のアテナイの法廷では一般市民から選ばれた多数の裁判官が判決の投票権を持っており、弁明演説の後で有罪か無罪かを票決し、有罪と決まった場合には量刑を決定するという仕組みを採用していました。その際、原告と被告それぞれが刑を提示した後に、やはり裁判官たちがどちらか一方を票決で選びます。
ソクラテスの死
「ソクラテスの弁明」はこの裁判においてソクラテスが行った弁明演説を描いた作品です。ソクラテスの裁判では 500 人の裁判官が選任されましたが、ソクラテスによる弁明演説の後に行われた投票において彼を有罪としたのは 280 票、無罪としたのは 220 票であり、ソクラテスは有罪になりました。
そこで量刑の決定プロセスへ移行するのですが、原告の求刑である死刑は罪状から見て厳しすぎるため、被告であるソクラテスが国外追放などの適当な量刑を主張すれば裁判官たちはそちらを票決していたと言われています。ところがソクラテスは自身に課される刑として「迎賓館における食事」や「銀 1 ムナ(非常識的に少ない金額と考えてください)の罰金」を主張するなど不遜な態度をとったため、今度は 360 票対 140 票の大差で死刑と票決されてしまいます。
この時期のアテナイではたまたま宗教的な行事が行われており、その間は死刑が執行されない決まりになっていました。そのためソクラテスの死刑執行は 1 カ月ほど延期され、その間に国外へ逃げようとすれば逃げられましたし、友人たちもその準備を整えていました。しかし、ソクラテスは友人たちの申し出を断り、最終的に毒杯を仰いで亡くなります。
「ソクラテスの弁明」のテーマ
ソクラテスは敗訴したものの、死刑を免れるチャンスはありました。「国の認める神々を認めない」「別のダイモーン(神)の祀りを導入した」「青年たちに有害な影響を与えた」という漠然とした罪に対する刑として死罪は重すぎるため、ソクラテスが国外追放などの妥当な刑罰を提示すれば裁判官たちはそちらを選んだと考えられます。実際、有罪票と無罪票の差は僅差であり、裁判官と聴衆の間にはソクラテスに同情する雰囲気が醸成されていました。それにも関わらずソクラテスはあえて裁判官たちに挑戦的な態度をとり、自身を死刑へと追い込んだのはなぜでしょうか。
また、ソクラテスは演説中に裁判の不当性を理路整然と訴えており、また彼の友人たちもそれに同感しソクラテスを逃亡させようと企てたにも関わらず、ソクラテスは彼らの申し出を断り死刑が執行されるのを待ったのはなぜでしょうか。
ソクラテスの弟子であるプラトンにとって、敬愛する師がこのような形で世を去ることにはとうてい納得できなかったでしょう。ソクラテスが自身の命を代償にしてまで体現したかったことは何か、ソクラテスの行動の背景にはどのような思想があるのか、プラトンはこれらの問いへの答えを確認するために「ソクラテスの弁明」を執筆しました。
次回からは「ソクラテスの弁明」の内容を解説します。
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