タバコの広告規制
世界保健機関(WHO)は喫煙による健康被害の拡大を憂慮し、1970年代から加盟国に対しタバコ対策の実施を呼びかけてきました。米国では1970年に「公衆衛生喫煙法(Public Health Cigarette Smoking Act)」が議会を通過し、テレビやラジオにおけるタバコCMが禁止されました。フランスでは1990年に、イギリスでは1991年に同趣旨の法律が可決されています。2005年にWHOにおいて「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(WHO Framework Convention on Tobacco Control : FCTC)」が発行されて以降、同意国はタバコの広告を全面的に禁止することが義務付けられるようになりました。日本も同条約を受諾しているものの、タバコ広告を全面的に禁止する法律を整備しておらず、タバコ業界が自主基準を定めた上で広告を運用しているのが現状です。
いずれにせよ、各国のタバコメーカーはなぜ広告規制に同意したのでしょうか。タバコがもたらす健康被害や企業の社会的責任などは理由になり得るものの、ここでは異なる角度、すなわち、タバコメーカーの経済的な動機に焦点を当てて問題を分析します。以降では、複数のタバコメーカーが競争する市場を想定するため、日本たばこ産業(JT)が独占的なタバコ製造権を持つ日本の状況を上手く描写できていないかもしれません。ただ、販売に関しては海外の有力メーカーが日本市場に参入しているため(ただし、JTが8割弱の販売シェアを持っている)、一定の説明力があります。もしくは、複数のタバコメーカーが競争する海外の市場や、タバコメーカーどうしのグローバルな競争を念頭に置いても良いかもしれません。
タバコメーカーの広告競争
喫煙者が減少傾向にある中、新たな顧客を開拓することよりも既存の顧客を囲い込むことが重要であり、タバコ広告もそのような観点から行われます。つまり、タバコメーカーが広告キャンペーンを行っても市場全体の規模は拡大せず、他社から顧客を奪うにとどまるということです。多くの場合、タバコの価格は規制されているため、タバコメーカーは広告を通じて企業もしくは商品のブランドイメージを高めることにより、より多くの顧客を獲得しようとします。ただし、広告キャンペーンを行っても消費者の総数は増加せず、一定数の消費者が、コアなファン層を除いて、ブランドイメージの良い企業から購入するものとします。
ここでは2つの企業が争う状況を想定します。それぞれの企業は「広告キャンペーンを行う」か「広告キャンペーンを行わない」かのどちらか一方を選択できるものとします。両企業がともに広告キャンペーンを行わない場合、両企業は需要を二等分するものとし、この場合にそれぞれの企業が得る利益を\(1\)で表します。
両企業がともに広告キャンペーンを行う場合にも、両企業はやはり需要を二等分するものとします。ただし、広告には莫大な費用がかかるため、広告キャンペーンを行わない場合よりも利益は減少します。そこで、両企業が広告キャンペーンを行う場合にそれぞれの企業が得る利益を\(0\)で表します。
一方の企業が広告キャンペーンを行い他方の企業が行わない場合、広告キャンペーンを行った企業がシェアを拡大します。広告キャンペーンを行った企業は広告費を負担する必要がありますが、シェアが拡大するため、両企業が広告キャンペーンを行わなかった場合の利益\(1\)よりも大きな利益\(a\)を得られるものとします。\(a>1\)です。広告キャンペーンを行わなった企業はシェアを失うため、両企業が広告キャンペーンを行う場合の利益\(0\)よりも小さい利益\(b\)を得るものとします。\(b<0\)です。
完備情報の静学ゲームとしての広告競争
以上の広告競争が想定する状況を2つの企業をプレイヤーとするゲームと解釈します。仮に両企業が広告を出すか否かを秘密裏に相談しても、そこでの約束に拘束力はありません。したがって広告競争は非協力ゲームです。また、両企業が相手の行動を観察できない状態で自身の行動を決めることを強いられるのであれば、広告競争は静学ゲームです。さらにゲームのルールが両企業にとって共有知識であることを仮定するのであれば、広告競争が描写する戦略的相互依存の状況は完備情報ゲームとして記述されます。
そこで、価格競争を以下のような戦略型ゲーム\(G\)としてモデル化します。まず、ゲーム\(G\)のプレイヤー集合は\(I=\{1,2\}\)です。ただし、\(i\in I\)は企業\(i\)を表します。また、プレイヤー\(i\)の純粋戦略集合は\(S_{i}=\left\{ N,A\right\} \)です。ただし、\(N\)は広告を出さないことを表し(Non-advertiserの\(N\))、\(A\)は広告を出すことを表します(Advertiserの\(A\))。自身が得る利潤を利得と同一視するのであれば、このゲームは以下の利得行列として整理されます。
$$\begin{array}{|c|c|c|}\hline
1\diagdown 2 & N & A \\ \hline
N & 1,1 & b,a \\ \hline
A & a,b & 0,0 \\ \hline
\end{array}$$
ただし、\(a>1\)かつ\(b<0\)です。
広告競争における均衡
広告競争ゲームでは両企業が広告を出すこと\(\left( A,A\right) \)が狭義の支配戦略均衡になります。
$$\begin{array}{|c|c|c|}\hline
1\diagdown 2 & N & A \\ \hline
N & 1,1 & b,a \\ \hline
A & a,b & 0,0 \\ \hline
\end{array}$$
によって表現されているものとする。このゲーム\(G\)には狭義の支配戦略均衡が存在し、それは\(\left( A,A\right) \)である。
一般に、戦略型ゲーム\(G\)に狭義の支配戦略均衡が存在する場合には一意的であるため、広告を出し合うこと\(\left( A,A\right) \)は広告競争における唯一の狭義の支配戦略均衡です。
プレイヤーが混合戦略を採用する場合にはどうなるでしょうか。一般に、戦略型ゲーム\(G\)に狭義の支配戦略均衡が存在することと、\(G\)の混合拡張\(G^{\ast }\)に狭義の支配戦略均衡が存在することは必要十分であるとともに、両者は一致します。したがって、広告を出し合うこと\(\left( A,A\right) \)は混合戦略の範囲においても狭義の支配戦略均衡です。
戦略型ゲーム\(G\)に狭義の支配戦略均衡が存在する場合、プレイヤーたちが合理的であるという事実が共有知識でない場合においても、それぞれのプレイヤーが合理的でありさえすれば、プレイヤーたちはその均衡をプレーします。広告競争では広告を出し合うこと\(\left( A,A\right) \)が狭義の支配戦略均衡であるため、それぞれのプレイヤーが合理的であれば、彼らは均衡\(\left( A,A\right) \)を実際にプレーすることが予測されます。
広告競争の均衡分析
広告競争においてそれぞれのプレイヤーは、相手企業が\(A,N\)のどちらを選ぶ場合においても、自分は\(A\)を選んだ方が\(N\)を選ぶ場合よりもより大きな利得を得られます(\(A\)が\(N\)を狭義支配する)。したがって、プレイヤーの目的が自己の利得の最大化である限りにおいて、プレイヤーは\(A\)を選びます。
$$\begin{array}{|c|c|c|}\hline
1\diagdown 2 & N & A \\ \hline
N & 1,1 & b,a \\ \hline
A & a,b & 0,0 \\ \hline
\end{array}$$
しかし、両企業が\(A\)を選んだときに実現する結果\(\left( A,A\right) \)において各企業が得る利得(上の表では\(0\))は、両企業が\(N\)を選んだときに実現する結果\(\left( N,N\right) \)において各企業が得る利得(上の表では\(1\))よりも小さくなってしまいます。相手企業にとっても事情は同じであるため、自社だけではなく相手企業にとっても\(\left(N,N\right) \)は\(\left( A,A\right) \)よりも望ましい結果のはずです。つまり、それぞれのプレイヤーが自己の利得を最大化するために行動する場合、得られる結果は相手企業だけではなく自社にとっても最適なものにならないという意味において、広告競争は興味深い例になっています。
自己の利得を最大化する合理的なプレイヤーたちは本当に\(\left(N,N\right) \)をプレーしないのでしょうか。\(\left( N,N\right) \)は\(\left( A,A\right) \)よりも両企業により大きな利得をもたらすため、\(\left( N,N\right) \)が実現しないという結論に違和感を感じるかもしれません。そこで以下では、\(\left( N,N\right) \)が実現しない理由をより詳細に分析します。
まず、広告競争のような完備情報の静学ゲームは、プレイヤーの間に拘束的な合意が成立しない状況が想定されています。したがって、仮に一方の企業が\(N\)を選んだとしても、その企業は相手企業に対して\(N\)を選ぶように仕向けることはできません。そして、自分が\(N\)を選んだときに相手が\(A\)を選べば、それは自分にとって最悪の結果です(上の表では利得\(b\))。したがって自分が\(N\)を選ぶ合理的な根拠がありません。一歩譲って、仮に相手企業に対して\(N\)を選ぶように仕向けることに成功したとしましょう。しかし、その場合には、今度は自分が\(N\)ではなく\(A\)を選べば自身にとって最良の結果になるため(上の表では利得\(a\))、自身は\(A\)を選ぶことになります。したがってこの場合にも自身が\(N\)を選ぶ合理的な根拠がありません。
タバコメーカーが広告規制を受け入れる理由
両企業が広告を出さない\(\left( N,N\right) \)という結果が両企業にとって最も望ましいにも関わらず、両企業が合理的である場合には、結局、\(\left( A,A\right) \)という結果が実現してしまうことが明らかになりました。
$$\begin{array}{|c|c|}\hline
1\diagdown 2 & N \\ \hline
N & 1,1 \\ \hline
\end{array}$$
政府が規制を通じてタバコ広告を全面的に禁止した場合、両企業は戦略\(A\)を選択することができなくなるため、両社が直面するゲーム\(G\)は上の利得行列へと変換されます。このゲームにおいて両企業は\(\left( N,N\right) \)をプレーせざるを得ないのですが、先述のように、これは両企業にとって最も望ましい結果です。つまり、タバコ広告規制はメーカーにとってむしろ歓迎すべき政策であるということになります。加えて、政府はタバコ広告を全面的に禁止したという実績を挙げることもできます。
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