乗法
すべての実数からなる集合\(\mathbb{R} \)の上には乗法(multiplication)と呼ばれる二項演算\begin{equation*}\cdot :\mathbb{R} \times \mathbb{R} \rightarrow \mathbb{R} \end{equation*}が定義されているものと定めます。実数を成分とする順序対\(\left( x,y\right) \in \mathbb{R} \times \mathbb{R} \)に対して乗法\(\cdot \)が定める実数を、\begin{equation*}x\cdot y
\end{equation*}で表記し、これを\(x\)と\(y\)の積(product)と呼びます。多くの場合、積を表す演算子\(\cdot \)を省略します。つまり、\(x\)と\(y\)の積を、\begin{equation*}xy
\end{equation*}で表記するということです。順序対\(\left( x,y\right) \)に乗法\(\cdot \)を作用させることを\(x\)と\(y\)を掛ける(multiply)と言います。
集合\(\mathbb{R} \)上に乗法\(\cdot \)が定義されていることとは、\begin{equation*}\forall x,y\in \mathbb{R} :x\cdot y\in \mathbb{R} \end{equation*}が成り立つことを意味します。つまり、任意の2つの実数の積が実数になることが保証されているということです。このことを指して\(\mathbb{R} \)は乗法\(\cdot \)について閉じている(closed under multiplication)と言います。
公理主義的実数論においては、乗法\(\cdot \)が満たすべき性質を公理として定めます。
乗法\(\cdot \)が満たすべき1つ目の公理は、\begin{equation*}\left( R_{5}\right) \ \forall x,y,z\in \mathbb{R} :\left( x\cdot y\right) \cdot z=x\cdot \left( y\cdot z\right)
\end{equation*}であり、これを乗法に関する結合律(associative law)と呼びます。括弧\(\left( \ \right) \)は乗法を適用する順番を表す記号です。つまり、左辺\(\left( x\cdot y\right) \cdot z\)は、はじめに\(x\)と\(y\)を掛けた上で、得られた結果\(x\cdot y\)と\(z\)をさらに掛けて得られる結果です。右辺の\(x\cdot \left( y\cdot z\right) \)は、はじめに\(y\)と\(z\)を掛けた上で、\(x\)と先の結果を掛けて得られる結果です。結合律はこれらの結果が等しいことを保証します。つまり、3つの実数\(x,y,z\)に対して乗法を適用する際には、隣り合うどの2つを先に掛けても得られる結果は変わらないということです。
乗法\(\cdot \)が満たすべき2つ目の公理は、\begin{equation*}\left( R_{6}\right) \ \exists 1\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} ,\ \forall x\in \mathbb{R} :x\cdot 1=x
\end{equation*}です。これは、任意の実数\(x\)に掛けてもその結果が\(x\)のままであるような\(0\)とは異なる実数\(1\)の存在を保証しています。この実数\(1\)を乗法単位元(identity element of multiplication)やイチ(one)などと呼びます。
乗法\(\cdot \)が満たすべき3つ目の公理は、\begin{equation*}\left( R_{7}\right) \ \forall x\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} ,\ \exists x^{-1}\in \mathbb{R} :x\cdot x^{-1}=1
\end{equation*}です。これは、加法単位元\(0\)とは異なるそれぞれの実数\(x\)に対して、それに掛けると結果が乗法単位元\(1\)になるような実数\(x^{-1}\)の存在を保証しています。このような実数\(x^{-1}\)を\(x\)の乗法逆元(inverse element of multiplication)や逆数(inverse number)などと呼びます。\(x\)の乗法逆元を\(1/x\)や\(\frac{1}{x}\)で表記することもあります。
公理\(\left( R_{7}\right) \)では、加法単位元\(0\)とは異なる実数\(x\)に対してのみ、その乗法逆元\(x^{-1}\)の存在を保証しています。では、\(0\)の乗法逆元\(0^{-1}\)は存在するのでしょうか。つまり、\begin{equation*}0\cdot 0^{-1}=1
\end{equation*}を満たす実数\(0^{-1}\)は存在するのでしょうか。\(0^{-1}\)が存在するものと仮定しましょう。詳細は場を改めて解説しますが、後ほど導入する分配律と呼ばれる公理を利用すると、任意の実数と\(0\)の積は\(0\)になることが示されるため、仮に\(0^{-1}\)が存在する場合には\(0\cdot 0^{-1}=0\)となり、これと\(0\cdot 0^{-1}=1\)から\(0=1\)を得ます。一方、公理\(\left( R_{6}\right) \)において\(1\)を\(0\)とは異なる実数と定義しているため、これは矛盾です。したがって、\(0^{-1}\)が存在することを公理として認めると公理系が矛盾したものになってしまいます。このような事情もあり、公理\(\left( R_{7}\right) \)では\(0\)とは異なる実数に対して乗法逆元が存在するものと定めています。
乗法\(\cdot \)が満たすべき4つ目の公理は、\begin{equation*}\left( R_{8}\right) \ \forall x,y\in \mathbb{R} :x\cdot y=y\cdot x
\end{equation*}であり、これを乗法に関する交換律(commutative law)と呼びます。本来、2つの実数\(x,y\)に関する順序対\(\left( x,y\right) ,\left(y,x\right) \)は異なるものとして区別されるため、\(\left( x,y\right) \)に\(\cdot \)を適用して得られる\(x\cdot y\)と\(\left( y,x\right) \)に\(\cdot \)を適用して得られる\(y\cdot x\)もまた区別されるべきですが、交換律はこれらが常に等しいことを保証します。
乗法を規定する公理は以上の通りです。まとめておきます。
&&\left( R_{6}\right) \ \exists 1\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} ,\ \forall x\in \mathbb{R} :x\cdot 1=x \\
&&\left( R_{7}\right) \ \forall x\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} ,\ \exists x^{-1}\in \mathbb{R} :x\cdot x^{-1}=1 \\
&&\left( R_{8}\right) \ \forall x,y\in \mathbb{R} :x\cdot y=y\cdot x
\end{eqnarray*}を満たすことを公理として定める。
乗法\(\cdot \)が\(\left( R_{5}\right) \)を満たすことは、\(\mathbb{R} \)が乗法\(\cdot \)に関して半群(semigroup)であることを意味します。また、\(\left( R_{5}\right) \)に加えて\(\left( R_{6}\right) \)を満たすことは\(\mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} \)が乗法\(\cdot \)に関してモノイド(monoid)であることを意味します。また、\(\left(R_{5}\right) \)と\(\left( R_{6}\right) \)に加えて\(\left( R_{7}\right) \)が成り立つことは\(\mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} \)が乗法\(\cdot \)に関して群(group)であることを意味します。また、\(\left( R_{5}\right) ,\left(R_{6}\right) ,\left( R_{7}\right) \)に加えて\(\left(R_{8}\right) \)を満たすことは、\(\mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} \)が乗法\(\cdot \)に関して可換群(commutative group)またはアーベル群(abelian group)であることを意味します。つまり、公理主義的実数論において、\(\mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} \)は乗法\(\cdot \)に関して可換群であることを公理として認めるということです。
乗法逆元の乗法逆元
公理主義のもとで実数について考えるということは実数の公理だけを議論の前提として認めることを意味します。したがって、\(\mathbb{R} \)上に定義された乗法\(\cdot \)に関する主張はいずれも乗法\(\cdot \)に関する公理\begin{eqnarray*}&&\left( R_{5}\right) \ \forall x,y,z\in \mathbb{R} :\left( x\cdot y\right) \cdot z=x\cdot \left( y\cdot z\right) \\
&&\left( R_{6}\right) \ \exists 1\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} ,\ \forall x\in \mathbb{R} :x\cdot 1=x \\
&&\left( R_{7}\right) \ \forall x\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} ,\ \exists x^{-1}\in \mathbb{R} :x\cdot x^{-1}=1 \\
&&\left( R_{8}\right) \ \forall x,y\in \mathbb{R} :x\cdot y=y\cdot x
\end{eqnarray*}から導かれてはじめて正しいものとして認められます。そこで、乗法の公理から導かれる乗法に関する基本的な命題をいくつか紹介します。
\(0\)とは異なる実数\(x\)を任意に選んだとき、乗法逆元の定義\(\left( R_{7}\right) \)より、その乗法逆元\(x^{-1}\)に相当する実数が存在します。しかも\(x^{-1}\)は\(0\)とは異なる実数です。実際、乗法逆元の定義より\(x\cdot x^{-1}=1\)が成り立ちますが、仮に\(x^{-1}=0\)とすると\(x\cdot 0=1\)を得ます。詳細は場を改めて解説しますが、後ほど導入する分配律と呼ばれる公理を利用すると、任意の実数と\(0\)の積は\(0\)になることが示されるため\(x\cdot 0=0\)を得ます。これと\(x\cdot 0=1\)より\(0=1\)を得ます。一方、公理\(\left( R_{6}\right) \)において\(1\)を\(0\)とは異なる実数と定義しているため、これは矛盾です。したがって、\(0\)とは異なる任意の実数\(x\)の乗法逆元\(x^{-1}\)もまた\(0\)とは異なることが保証されます。\(x^{-1}\)が\(0\)ではない実数であるならば、やはり乗法逆元の定義より、さらにその乗法逆元\(\left( x^{-1}\right) ^{-1}\)が存在しますが、実はこれはもとの実数\(x\)と一致します。つまり、\(0\)とは異なる任意の実数\(x\)に対して、その乗法逆元の乗法逆元は\(x\)と一致するということです。
\end{equation*}が成り立つ。
乗法に関する簡約法則
\(\mathbb{R} \)は乗法\(\cdot \)について閉じているため、\(0\)ではない実数\(x\)に対して実数\(y,z\)をそれぞれ掛けて得られる\(x\cdot y\)と\(x\cdot z\)はともに実数です。仮にこの2つの積が等しければ、\(x\)にそれぞれ掛けた\(y\)と\(z\)が等しくなります。これを乗法に関する簡約法則(cancellation law)と呼びます。これは直感的には自明な主張ですが、公理主義的実数論のもとでは、これもまた乗法に関する公理から証明する必要があります。
実数である\(x\in \mathbb{R} \backslash \{0\}\)と\(y,z\in \mathbb{R} \)をそれぞれ任意に選んだとき、\begin{equation*}x\cdot y=x\cdot z\Rightarrow y=z
\end{equation*}が成り立つ。
上の命題において\(x\)は\(0 \)とは異なる実数と定められていますが、\(x=0\)の場合、上の命題は成立しません。繰り返しになりますが、後ほど導入する分配律と呼ばれる公理を踏まえると任意の実数と\(0\)の積は\(0\)になることが示されるため、\(x=0\)の場合、\(y\not=z\)を満たす実数\(y,z\)についても\(x\cdot y=x\cdot z=0\)が成り立ちます。しかし\(y\not=z\)であるため、この場合には上の命題は成り立ちません。
乗法の簡約法則は実数の公理から導かれた命題であるため、議論の前提として利用することができます。乗法の簡約法則からは様々な有用な命題を導くことができます。
乗法単位元の乗法逆元
乗法単位元\(1\)は\(0\)とは異なる実数であるため、乗法逆元の定義より、その乗法逆元\(1^{-1}\)もまた実数ですが、乗法に関する簡約法則を利用すると、これが\(1\)と一致することが示されます。つまり、乗法単位元\(1\)の乗法逆元は\(1\)と一致するということです。しかも、乗法単位元の定義より\(1\not=0\)であるため、\(1\)と一致する\(1^{-1}\)に関しても\(1^{-1}\not=0\)であることが保証されます。
\end{equation*}が成り立つ。したがって\(1^{-1}\not=0\)である。
乗法単位元の一意性
乗法に関する簡約法則を利用すると、乗法単位元\(1\)が一意的であることが示されます。
乗法逆元の一意性
\(0\)とは異なる実数\(x\)を任意に選んだとき、乗法単位元の定義より、その乗法逆元\(x^{-1}\)に相当する実数が存在しますが、乗法に関する簡約法則を利用するとこれが一意的であることが示されます。つまり、\(0\)とは異なるそれぞれの実数に対して、その乗法逆元は1つずつしか存在しないということです。
演習問題
\end{equation*}を満たす\(0\)とは異なる実数として定義されますが、その一方で、\begin{equation*}\forall x\in \mathbb{R} :1\cdot x=x
\end{equation*}という命題もまた成立することを実数の公理から証明してください。
\end{equation*}を満たす実数\(x^{-1}\in \mathbb{R} \)として定義されますが、その一方で、\begin{equation*}\forall x\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} :x^{-1}\cdot x=1
\end{equation*}という命題もまた成立することを実数の公理から証明してください。
\end{equation*}と定義されます。これまで登場した公理に加えて分配律もまた公理として認めるとき、以下が成り立つことをそれぞれ証明してください。
- 任意の実数と\(0\)の積は\(0\)になる。すなわち、\begin{equation*}\forall x\in \mathbb{R} :x\cdot 0=x\end{equation*}が成り立つ。
- \(0\)の乗法逆元\(0^{-1}\)は存在しない。
- \(0\)とは異なる任意の実数の乗法逆元は\(0\)ではない。すなわち、\begin{equation*}\forall x\in \mathbb{R} \backslash \left\{ 0\right\} :x^{-1}\not=0\end{equation*}が成り立つ。
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