消費者理論
モノやサービスを消費する主体を消費者(consumer)と呼びます。消費者理論(consumer’s theory)とは消費者による意思決定を分析する理論です。消費者理論では消費者による意思決定を描写するモデルを構築し、そのモデルに対して操作を加えたときに何が起こるかを観察することを通じて、消費者による意思決定に関する知見を得ようとします。では、消費者の意思決定をどのようにモデル化すればよいでしょうか。
仮にすべての消費者が好きなものを好きなだけ消費できるならば、消費者が何をどのように選ぶのかという問題をわざわざ取り上げる必要はありません。実際には世の中に存在する資源は有限であり、加えて消費者は所得をはじめとする様々な制約に直面しているため、好きなものを好きなだけ消費できるわけではありません。だからこそ消費者が何をどのように選ぶのかという問題について考える意味があります。消費者理論は、様々な制約に直面する消費者がどのような意思決定を行うかを明らかにしようとします。
消費者が何をどのように選択するかを分析する前に、消費者が直面する制約と、その制約のもとで消費者に与えられる選択肢を明らかにする必要があります。そこで、消費者理論ではそれぞれの消費者が直面する選択肢からなる集合を消費集合(consumption set)や予算集合(budget set)などの概念を用いてモデル化します。
続いて問題になるのは、選択肢の集合を与えられた消費者がどのように意思決定を行うかという点です。一般に、複数の消費者に対して同一の選択肢集合を提示したとき、彼らはその中から同じものを選ぶとは限りません。商品に対する好みの体系は人それぞれだからです。いずれにせよ、消費者による意思決定は、その人が持つ好みの体系によって左右されることには疑いの余地はありません。そこで、消費者理論では消費者が持つ好みの体系を選好関係(preference relation)や効用関数(utility function)などの概念を用いてモデル化します。
消費者理論では、消費者は自身が直面する選択肢集合の中から、自身の選好にもとづいて最も望ましい選択肢を選ぶものと仮定します。以上の仮定のもとで、消費者は具体的にどのような選択を行うのか(最適化問題)、また、外生的な条件が変化した場合に消費者の選択はどのように変化するのか(比較静学)、などを考察することになります。
消費者の単位
モノやサービスを消費する主体として消費者を定義しましたが、現実の経済には様々なクラスの消費主体が存在します。典型的な消費主体は個人(individual)ですが、複数の個人から構成される家計(household)や組織(organization)などもまた消費主体になり得ます。
消費者の範囲を決定する上で重要なことは、それが消費に関する自律的な意思決定を行う最小単位であるということです。例えば、個人が自身の判断のみにもとづいて自身の消費を決定するのであれば、個人が消費者の単位となります。一方、家計に属する複数の成員が集団として意思決定を行うのであれば、家計が消費者の単位となります。その他の組織や集団についても同様です。ちなみに、同一集団に属する個々の成員が異なる選好を持つときに、その集団を1つの消費者とみなすとコンドルセの逆説(Condorcet paradox)と呼ばれる齟齬が生じることが知られています。いずれにせよ、分析対象や目的に応じて消費者の単位を決めることが重要です。
商品
現実の社会には所有権や使用権を売買できないモノやサービスが存在します。具体例を挙げると、大気や自然環境など物理的に売買が困難であるものや、麻薬や奴隷など法や慣習によって売買が禁止されているものがあります。また、共産主義体制のもとでは生産手段の私有が認められないなど、政治体制や歴史に起因する事例もあります。いずれにせよ、消費者理論においては、所有権や使用権を自由に売買できるモノやサービスだけを消費者による選択対象とみなし、そのような環境を市場経済(market economy)と呼びます。市場経済において消費者が売買するモノやサービスを商品(commodities)や財(goods)と呼びます。
自由に売買できるモノとサービスだけを考察対象とする立場とは別に、世の中に存在するあらゆるモノとサービスには所有権や使用権が定められており、それらを売買する市場が存在するものと仮定する場合もあります。このような仮定を市場の普遍性(universality of market)と呼びます。市場の普遍性の仮定のもとでは、現実世界に存在するあらゆるモノとサービスが消費者による選択の対象となります。
市場の普遍性の仮定は、市場メカニズムが社会的に効率的な結果を実現することを理論的に保証する上で重要な役割を果たします。逆に言えば、現実世界では市場の普遍性が成り立たないため、市場メカニズムが実現する結果は社会的に効率的であるとは限らないということです。この論点については、後に市場均衡について学ぶ際に詳しく解説します。
商品の区別
所有権や使用権を自由に売買できるモノやサービスとして「商品」を定義しました。続いて問題になるのは商品の区別です。世の中には無数の商品が存在するだけでなく、同じような商品でも、物理的な特徴(色・形・重さ・品質など)や機能、販売場所、販売時間が異なれば、それらを異なる商品として区別することができます。ただ、実際の分析では、世の中にあるすべての商品を明示的に扱うのではなく、分析目的に応じて特定の商品だけを分析対象とします。
商品ベクトル
現実の世界には無数の商品が存在しますが、厳密には、世の中に存在する商品の種類は有限です。また、仮に商品の種類が無限である場合でも、消費者が実際に認識し、消費できる商品の種類は有限です。したがって、消費者の意思決定を分析する際には、市場経済に有限\(N\)種類の商品が存在するものと仮定しても一般性は失われません。
市場経済において売買される\(N\)種類の商品の数量の組み合わせを表すベクトルを、\begin{equation*}\boldsymbol{x}=\left(
\begin{array}{c}
x_{1} \\
\vdots \\
x_{N}\end{array}\right) \in \mathbb{R} ^{N}
\end{equation*}で表記し、これを商品ベクトル(commodity vector)と呼びます。商品ベクトル\(\boldsymbol{x}\)は\(N\)次元ベクトルであり、その第\(n\)成分である\(x_{n}\)は\(n\)番目の商品の数量を表す実数です。\(n\)番目の商品を商品\(n\)(commodity \(n\))や財\(n\)(good \(n\))などと呼びます。
商品ベクトルを列ベクトルとして定義しましたが、多くの場合、スペースの制約を考慮した上で、これを行ベクトル\begin{equation*}
\boldsymbol{x}=\left( x_{1},\cdots ,x_{N}\right) \in \mathbb{R} ^{N}
\end{equation*}として表記することもあります。本来、列ベクトルと行ベクトルは数学的には互いに区別されるべき概念ですが、ここでは特に断りのない限り両者を同一視し、両者は交換可能であるものとします。
\(N\)種類の商品の数量の組み合わせは無数に存在するため、商品ベクトルは無数に存在します。すべての商品ベクトルからなる集合をユークリッド空間\begin{equation*}\mathbb{R} ^{N}\end{equation*}とみなし、これを商品集合(commodity set)や商品空間(commodity space)などと呼びます。
\end{equation*}であり、これは2次元平面に相当します。
\end{equation*}であり、これは3次元空間に相当します。
消費集合
現実の消費者は様々な制約に直面しているため、商品空間\(\mathbb{R} ^{N}\)に属するすべての商品ベクトルを自由に選択できるわけではありません。このような事情を踏まえた上で、消費者が選択可能な商品ベクトルからなる集合を消費集合(consumption set)や消費空間(consumption space)などと呼びます。消費集合を\(X\)で表記する場合、明らかに、\begin{equation*}X\subset \mathbb{R} ^{N}
\end{equation*}という関係が成り立ちます。つまり、消費集合は商品集合の部分集合です。
消費集合\(X\)に属する商品ベクトル、すなわち消費者が選択可能な商品ベクトルを消費ベクトル(consumption vector)や消費計画(consumption plan)などと呼びます。
\end{equation*}です。このような消費集合を考察対象にすることとは、消費者はそれぞれの商品を消費しないか、任意の正の量を消費できるものと仮定することを意味します。
消費者に課される物理的な制約
消費者は物理的な制約(physical constraint)に直面します。
\end{equation*}という制約が課されます。
\end{equation*}という制約が課されます。つまり、\(x_{n}\)は非負の整数を値としてとり得ます。この例のように、非負の整数単位でのみ消費可能な商品を非分割財(indivisible commodity)と呼びます。他方で、任意の実数量で消費可能な商品を分割財(divisible commodity)と呼びます。
&=&\left\{ \boldsymbol{x}\in \mathbb{R} ^{N}\ |\ \forall n\in \left\{ 1,\cdots ,N\right\} :x_{n}\geq 0\right\}
\end{eqnarray*}となります。
消費者に課される生理的な制約
消費者は生理的な制約(physiological constraint)に直面します。
\end{equation*}を満たす定数\(\gamma _{1},\cdots ,\gamma_{N}\in \mathbb{R} \)を用いて、\begin{equation*}X=\left\{ \boldsymbol{x}\in \mathbb{R} _{+}^{N}\ |\ \forall n\in \left\{ 1,\cdots ,N\right\} :x_{n}\geq \gamma
_{n}\right\}
\end{equation*}と表現されているものとします。それぞれの商品\(n\)に関するパラメータ\(\gamma _{n}\)は、消費者が生存を維持するために消費せざるを得ない商品\(n\)の数量に相当します。これを商品\(n\)の生存維持水準(level of subsistence)や必需的消費(necessary consumption)などと呼びます。
生存ラインに肉薄する食料消費量を値として取る消費ベクトルにおいては、消費者にとって食料の価値が他の商品の価値よりも圧倒的に高くなるため、その周辺にある消費ベクトルどうしを比べることが困難になります。このような事情もあり、生理的な制約を明示的に考慮した消費集合を利用することは稀です。飢餓などの極限的な状況において消費者は生存ライン周辺の消費者ベクトルに直面しているため、開発経済学など、飢餓を明示的に分析する場合には、生理的な制約を考慮した消費集合を利用します。
消費者に課される制度的な制約
消費者は制度的な制約(institutional constraint)に直面します。
\end{equation*}という物理的制約が課されます。加えて、単純化のために余暇以外のすべての時間を「労働」とみなした上で、1日の労働時間は\(8\)時間以内でなければならないという法律が存在するならば、\begin{equation*}0\leq 24-x_{n}\leq 8
\end{equation*}すなわち、\begin{equation*}
16\leq x_{n}\leq 24
\end{equation*}という制度的制約が加わります。
特定の制度の有無が消費行動に与える影響に興味がある場合には、制度的な制約を明示的に考慮した消費集合を利用することにより分析目的を達成できます。ただ、消費者理論の一般的な分析では、制度的な制約を明示的に考慮した消費集合を利用することは稀です。
消費者に課される経済的な制約
消費者は経済的な制約(economic constraint)に直面します。市場経済において消費者が商品を手に入れるためには、商品と引き換えに、商品の価格(price)に相当する対価を支払わなければなりません。支払いの源泉は消費者の所得(wealth)ですが、所得は自身が保有する商品(労働を含める)を市場で処分することで得られる収入や、自身が保有する資産(株式など)からの収入に依存します。これらの事情を踏まえた上で、消費者の支出額は所得の範囲内に収まっていなければならないというのが経済的制約の意味するところです。
これまで解説したように消費者は様々な種類の制約に直面していますが、消費者理論ではその中でも経済的な制約を重視します。経済的制約を明示的に考慮した消費集合を特に予算集合(budget set)と呼びます。予算集合については後ほど詳しく解説します。
演習問題
- ブラックコーヒーを2杯飲む。
- 角砂糖を2つ入れた紅茶を3杯飲む。
- 角砂糖を3つ入れたコーヒーと、角砂糖を1つ入れた紅茶を1杯ずつ飲む。
\end{equation*}で表します。この例における商品\(2\)のように、問題としている商品(この例ではコメ)とは異なるすべての商品を包含する概念を合成財(compositegood)と呼びます。コメの消費量は重さで計測できるため、\(x_{1}\)の単位としてキログラムなどを採用し、その価格\(p_{1}\)としてコメのキロ当たり価格を採用できます。一方、\(x_{2}\)はコメ以外のすべての商品の消費量を表しており、その中には重さで測れる商品(食料など)や、重さで測れない商品(様々なサービス)など、様々なものがあるため、\(x_{2}\)の単位として重さを採用できません。では、合成財の消費量\(x_{2}\)や価格\(p_{2}\)の単位として何を採用すればよいでしょうか。
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